みんなのランキング

きゅうちゃんさんの「軍師ランキング」

18 4
更新日: 2020/08/29

ランキング結果をSNSでシェアしよう

Twitterでシェア

ランキング結果

1竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

16人で稲葉山城奪取は凄すぎる

秀吉の軍師として活躍した事で有名な軍師ですね、竹中半兵衛は。病弱であった為に秀吉の中国攻めあたりで亡くなってしまうけど、もし生きてたら?と残念に感じます。能力の高さは稲葉山城奪取で明らかです。主君を諫める為に、難攻不落の稲葉山城をあっさりと落としてしまうんですから。これで健康でさえればもっとメジャーになったのにと思います。

2山本勘助

山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。

武田家に勘助あり

川中島の合戦で亡くなってしまいましたが、これは正直相手が悪すぎた。さすが軍神・上杉謙信です。まあラストは仕方ないとして、それまでの武田家を支えてきたのは間違いなく山本勘助でしょう。軍師としてだけでなく情報力もハンパなかったですし。もし川中島の合戦を生き延びていたら武田家滅亡もなかったのでは?と思います。

3太原雪斎

No Image

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。

太原雪斎が生きて居れば桶狭間もなかったろうに

今川義元の軍師として活躍したのが、この太原雪斎。かの徳川家康も太原雪斎の教育を受けたからこそ、天下人になりえたんだと思います。もし太原雪斎が生きていたら、桶狭間の戦いで今川家が破れる事もなかったろうに。名軍師でした。

4黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

5宇佐美定満

宇佐美定満

宇佐美 定満(うさみ さだみつ)は、戦国時代の武将。越後国(現在の新潟県)において琵琶島城(現在の柏崎市元城町付近)に勢力を持っていたとされている。伊豆国宇佐美荘(現在の静岡県伊東市宇佐美)を発祥とし、越後守護上杉家の重臣を務めた宇佐美氏出身。

このランキングに共感できましたか?

総合ランキングをみる