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金谷 俊一郎さんの「軍師ランキング」

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更新日: 2020/11/06
金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎

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まえがき

この軍師のランキングは、正直頭を悩ませました。
なぜなら軍師という存在は歴史の表舞台に登場することが少なく、軍師と呼ばれる人の功績とされることについても、後の歴史小説がある事実を大きく膨らませ、それが一人歩きしてしまい軍師像を作り上げているというところが多々あるからです。

もちろんそういった歴史小説の醍醐味を楽しむということも歴史を楽しむ面白さでもあります。歴史小説を書いた人も全く何もないところからそのエピソードを作り上げたわけではなく、その軍師の性格や考え方などからエピソードが膨らんできたわけですから、これも歴史の一側面であるともいえます。

ただ今回私は歴史コメンテーターとして、できる限り史実に則った上でのランキングを作成いたしました。

ランキング結果

1竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

天下人になれるだけの実力がありながら生涯一軍師に徹した英哲

軍師という立場に飽き足らず、軍師から戦国大名ひいては天下人を目指す人も多いです。豊臣秀吉はまさしく軍師から天下人になった人ですし、かの明智光秀も、確かに本能寺の変を起こした本当の理由については歴史の謎に包まれていますが、やはり軍師の次のステップを目指したのではないかと考えられます。
しかし、この竹中半兵衛は生涯一軍師を貫きました。

主君である斎藤龍興を戒めるため、難攻不落と言われた稲葉山城をわずかな手勢で、しかもたった一日で陥落させました。しかもこれを二十歳そこそこの若さでやってしまうのです。さらにすごいのはその陥落させた稲葉山城を主君である斎藤龍興にあっさりと返還してしまったのです。領土的な野心や下剋上ではなく、 あくまでも主君に目を覚まして欲しいと思ってやったことだったわけです。

斎藤龍興が稲葉山の戦いで敗れた後も、竹中半兵衛ほどの実力があればすぐに誰かに仕えることはできるかもしれませんが、あっさりと浪人生活を選んでしまいます。
この竹中半兵衛を欲しがったのが信長です。この信長の誘いをあっさり蹴って、信長の家臣になることを説得しに来た秀吉に仕えたわけです。
また、信長から黒田官兵衛の子を殺せとを命じられた時も黒田官兵衛の無実を信じて殺さなかったというエピソードも感動的です。

その他にも様々なエピソードがありますが、その多くは後世に脚色された部分が多く全てを史実として扱うことは危険ですが、そのような様々なエピソードが出てくること自体、 竹中半兵衛に大きな魅力があるということが言えると思います。

2明智光秀

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされる。

あの信長の無理難題を全て実現してしまう行動力

明智光秀が信長のもとであれだけ出世した理由は、信長の無理難題を全て完璧に実現してしまった行動力にあります。その行動力とは実際の戦いでの強さとは別のもので、大名同士との調整能力でもあり、また信長をいかに強く見せるかといった演出力にあります。

信長は入京の際に室町幕府15代将軍足利義昭を立てるわけですが、その際も明智光秀の存在がなければ、この計画は実現しなかったともいえます。
その後明智光秀は、近江坂本や丹波国を領有し、丹後、大和、南山城の武将たちの統率を任せられます。これは京都周辺を全て明智光秀に任せたという風に言っても良いような行動です。将軍をはじめとした京都周辺の全ての調整を明智光秀が行ったわけです。

こうゆうと明智光秀は調整役であって軍師とは言えないのではという意見が出てくるかもしれません。軍師と言うと戦略を練ることに長けた人物というイメージがあるかもしれませんが、最強の軍師はそうではないと考えます。

本当に強い戦国大名は戦う前に勝敗を決めてしまいます。豊臣秀吉は小田原攻めの際、20万以上の軍勢を使い圧倒的な力の差を見せつけ、全面的な戦争をすることなく勝利を収めます。 敵の前で「お前はもう死んでいる」と言えるような戦いをする戦国大名こそ最強の戦国大名なのです。

ですからその状態に持っていける軍師こそが最も優れた軍師と言えるわけです。その点においては明智光秀にまさる軍師はいないと考えられます。
だからこそ、それほどの軍師であった明智光秀がなぜ本能寺の変を起こしたということが歴史にとって大きな謎となりミステリーとなるわけです。

3黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

戦国の世において人を殺すことをよしと思わなかった心優しき軍師

黒田官兵衛は出身が姫路ということもあり、非常に荒々しい郡市をイメージするかもしれません。ただ母方が京都の公家で和歌の教養が非常にあったこともあり、彼自身の和歌も非常に繊細で一見して戦国武将ではないのではと思わせるようなものが多いです。

また戦いにおいても出来る限り相手を殺さない戦略をとっています。
第2位の明智光秀のところで言ったように戦において逆転劇をすることが優れた軍師ではないと考えます。むしろ戦をする前にすでに勝敗が決しているような状態に持っていくことこそ有能な軍師と言えます。

このことは黒田官兵衛がキリシタン大名であったということにも関係があるかもしれません。黒田官兵衛は戦国の世には珍しく一夫一妻制を貫きました。人を殺さず、和歌を愛し、側室を持たない、戦国時代においてこのような態度だったからこそ秀吉の下で最強の軍師と呼ばれ九州をまとめあげて行くほどの力を持てたのではないかと考えます。そういえば明智光秀も一夫一妻を貫きました。

ですから大河ドラマの「軍師官兵衛」が決まった時、主役岡田准一さんが演じると聞いて、私は個人的に「なるほど」と思いました。黒田官兵衛の本当の姿をよく分かった上でのキャスティングだと感動したのを覚えています。

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