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戦国時代超大好き‼️さんの「戦国武将・大名ランキング」

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更新日: 2024/05/09

戦国時代超大好き‼️

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ランキング結果

1上杉謙信

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。

戦国最強‼︎

信玄との川中島の戦いは有名ですね。
しかも70戦61勝2敗8分って・・・・・・・・すごすぎ‼︎(または70戦43勝2敗25分)
あと、敵に塩を送るって優しいな。やっぱり謙信は『軍神』ですね‼︎

2織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

天下統一を目指した武将‼︎

私は謙信も大好きだけれど信長も大好きです。
だって本気で天下統一を目指したから‼︎
桶狭間、姉川、比叡山焼き討ち(これは・・・・・・・・)、長篠、手取川などいろいろ天下のために頑張ってきた戦国武将‼︎
ただし・・・・・・・・最後は・・・・・・・・

3竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

秀吉の軍師‼︎

竹中半兵衛ってめちゃくちゃすごい軍師‼︎
世の中の軍師で一番すごい‼︎
官兵衛と共に『両兵衛』と呼ばれた‼︎
だけど35で亡くなったのが残念・・・・・・・・
あと、官兵衛は『軍師官兵衛』で主人公になってるのに、半兵衛はなってない・・・・・・・・それも残念だな。

4直江兼続

直江兼続

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。直江兼続(樋口与六)はお船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えた。

上杉を支えた愛の武将‼︎

上杉景勝を支えた武将‼︎すごいな。
愛の兜も有名。(重くないか?)

長生き

92歳まで生きた。
信繁より好き。

6浅井長政

浅井長政

浅井 長政(あざいながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。

7井伊直政

井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

井伊の赤鬼‼︎

井伊の赤鬼かっこいい‼︎
あと徳川四天王に選ばれるってすごいな‼︎

8前田利家

前田利家

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に加賀百万石の祖とも称されるが、前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。

加賀百万石の祖

加賀百万石の祖‼︎
あと豊臣五大老になっていてすごい‼︎

松姫のことを恋い慕っていた

松姫と文通でやりとりしていました。
同盟が解消された後も、信忠は正室を持たずに、側室しか持っていませんでした。けれど、本能寺の変が起き、信忠は亡くなってしまいます。
松姫は出家して、信松尼と名乗ります。彼女は生涯独身でした。

9柴田勝家

柴田勝家

柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。

可哀想😢

可哀想・・・・・・・・
全ては秀吉のせいだ(秀吉ファンの人には申し訳ありません)。
でも戦国一の美女・お市の方と結婚できてうらやましい・・・・・・・・

かっこいい

忍城の戦いで、浪切丸を手に戦った‼︎
かっこいい❤️

上杉謙信の養子

上杉謙信の姉・綾の息子で、謙信の養子となった
直江兼続がいてくれなかったら、たぶん上杉当主になれてなかったのかなと思います。

12斎藤道三

斎藤道三

斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。美濃の蝮(マムシ)という綽名でも知られる。

濃姫の父で信長の義父

信長の正室・濃姫の父親で、織田信長の義父です。
信長に美濃国(岐阜県)を譲るということは相当な信頼をよせてたのかもしれません。

13蒲生氏郷

蒲生氏郷

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(またはレオ)。子に蒲生秀行。

信長の次女の夫

織田信長の次女・冬姫の夫。
これしか知らない。

14明智光秀

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされる。

ひどいとか言われてるけど違うと思う

信長を殺したからひどいと言われてるけど、違うと思う。妻・煕子を大事にして、側室は作らなかったし、信長の下で苦労したと思います。信長ファンのみなさんすみません‼︎

15藤堂高虎

藤堂高虎

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は、石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

7回も主君を変えた武将

7回も主君を変えた戦国武将だが、7回も主君を変えるって・・・・・・・・

16立花誾千代

立花誾千代

立花誾千代(たちばな ぎんちよ、永禄12年8月13日(1569年9月23日) - 慶長7年10月17日(1602年11月30日))は、戦国時代の女性武将。

かっこいい女武者‼︎

200人の侍女に武装させて訓練させていました‼︎
とってもかっこいい女武者です‼︎
でも早くに亡くなるのが残念です・・・・・・・・

16立花宗茂

立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

関ヶ原で西軍についたけど柳川の武将に返り咲いた

関ヶ原の戦い西軍に着いたけど、柳川の武将に帰り咲いた武将‼︎
妻の誾千代と一緒にすごいと思います。

17長宗我部元親

長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。

別名がいろいろある

姫若子、鬼若子、土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠。
四つもある。

18真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

六文銭

六文銭の武将。
まあまあ知ってるけど、それほどは知らない。

19加藤清正

加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。

熊本城

熊本城を作った人。
あと朝鮮飴のことぐらいしか知らない

20徳川家康

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。

すごい人だけど・・・・・・・・

豊臣秀吉に不満を持つのは分かる。
そして関ヶ原の戦いで石田三成を殺して、将軍になり、豊臣家を滅ぼし、天下人になった。ずるいと思う。だって信長が最初天下統一を築き、秀吉が、全国を統一したのに、家康は淀殿(茶々)と秀頼を自害させて、自分が天下人になるなんて。家康ファンの人、すみません。

21北条早雲

北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

願わくば、我に七難八苦を与えたまえ

この人は「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と言ったことで有名。

22雑賀孫市

雑賀孫市

鈴木 孫一(すずき まごいち)は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一という名でも知られる。表記ゆれとして「孫市」の名も知られる。

雑賀衆の頭領

鉄砲集団・雑賀衆の頭領
表記揺れとして『雑賀孫一』があるらしい。

23山本勘助

山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。

武田信玄の家臣

信玄の家臣(軍師?)。第4次川中島の戦いでキツツキ戦法を思いつき、信玄に提案して、実行されるも、結局、勘助は戦死する。

23石田三成

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

関ヶ原の戦いで負けてしまった

関ヶ原の戦いで西軍として家康と対立するも、一日で決着がついて負けてしまった。
皎月院という妻がいたのですが、逸話も全然残っていません。
彼からは『うた』と呼ばれてたらしいです。

24松永久秀

松永久秀

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代〜安土桃山時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、久秀の甥で松永家の姓を継承した永種(貞徳の父)。

将軍・足利義輝を殺した人

足利義輝を殺した‼︎ひどすぎる!!東大寺の大仏を焼くなんて・・・・・・
あと爆死って派手だな・・・・・・・・

25小早川隆景

小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。

小早川秀秋を養子にした

隆景は1人の男を養子にします。
それがあの小早川秀秋です。
秀秋は、関ヶ原の戦いで西軍を裏切って、東軍につき、戦後に、めちゃくちゃ若くして亡くなります。

25島清興(島左近)

島清興(島左近)

島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。実名は勝猛(かつたけ)などの俗称が広まってはいるが、自筆文書においても「清興」の花押を使用しており、正確には清興であると考えられる。

26今川義元

今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。

織田信長に負けた

まだ27歳の織田信長に負けるとは・・・・・・・・
少し油断しすぎじゃない?

27豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。

好きじゃない

信長のあとを継いで、柴田勝家とお市の方を殺して、小田原討伐とか、いろいろあるけど、許せないのは朝鮮出兵‼︎
清正、長政に朝鮮出兵行かせて、自分は死ぬなんて。許せない。
秀吉ファンの方すみません。

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