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【投票結果 1位~152位】戦国武将・大名最強ランキング!最も強い武将は?

武田信玄上杉謙信織田信長真田幸村(真田信繁)伊達政宗本多忠勝島津義弘毛利元就真田昌幸黒田官兵衛(黒田孝高)

このお題は投票により総合ランキングが決定

ランクイン数152
投票参加者数5,674
投票数28,738

みんなの投票で「戦国武将・大名最強ランキング」を決定!無敗を誇った武闘派の戦国武将や、危機的状況を策で乗り越えた頭脳派の戦国大名など、戦国時代には日本史を代表する強者たちが綺羅星のごとく存在します。第六天魔王と呼ばれ恐れられた「織田信長」を筆頭に、勇猛果敢な越後の龍「上杉謙信」や、織田信長ですら戦いを避けた「武田信玄」、戦国屈指の策略家「毛利元就」など、数多くの戦国武将&大名が誕生しました。あなたが戦国最強だと考える武将や大名に投票してください。

最終更新日: 2024/05/21

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ランキングの前に

1分でわかる「戦国武将・大名」

武将&大名が乱立した戦国時代とは

主に日本の15世紀〜16世紀にあたる戦国時代。幕府の権力が地に落ちたために、武士の家系で日本各地に日本人なら誰もが知っている武将や大名が乱立し、下克上を狙った戦が頻繁に行われる戦乱の時代でした。1467年に生じた応仁の乱をきっかけに全国各地で領土の奪い合いが始まったことから、戦国時代に突入したという説があります。

戦国時代を象徴する戦国武将・戦国大名

戦国時代に登場する、足軽や武士などで構成された、いわゆる軍勢を率いる人物のことを戦国武将と呼びます。戦国武将は、領地を広げたり守ったりと戦に明け暮れていただけではく、城や道路を作ったり堤防を作って川の氾濫を防いだりと、現代の公共事業と同じような方法で国を治めていました。一方、領地を多く治めている戦国武将を指して、戦国大名と呼ぶことがありますが、明確な違いはありません。

戦国最強候補にふさわしい武将・大名たち

戦国武将や大名のなかには、強さゆえに現代でも語り継がれるエピソードを持つ人物もいます。たとえば、尾張の大うつけと呼ばれた「織田信長」といえば、自軍の約5倍の軍勢を蹴散らした「桶狭間の戦い」で有名です。戦の天才と評された「上杉謙信」には、3万以上の敵兵に攻められた落城寸前の城を救ったという逸話があります。さらに、甲斐の虎と呼ばれた「武田信玄」は、軍馬の育成や兵の鍛錬など、圧倒的な軍勢を作り上げた人物です。最強と呼ぶにふさわしい戦国武将・大名はこのほかにも多数!

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このランキングの投票ルール

このランキングでは、「日本の戦国時代に活躍した武将や大名」に投票対象です。なお、本ランキングのテーマである「最強」の基準は、剣術や体術など個人の戦闘力でも、相手を策で撃破する頭脳的な能力でも、なんでもOKです。

ランキングの順位について

ランキングの順位は、ユーザーの投票によって決まります。「4つのボタン」または「ランキングを作成・編集する」から、投票対象のアイテムに1〜100の点数をつけることで、ランキング結果に影響を与える投票を行うことができます。

順位の決まり方・不正投票について

ランキング結果

\男女別・年代別などのランキングも見てみよう/

1武田信玄

78.8(2,745人が評価)
武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 (引用元: Wikipedia)

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戦国の厳しさを知っている名将

武田信玄は軍の作り方、国作りも含めて、戦国時代の世の中の生き抜き方を熟知していた名将だと思います。
人望に厚く、家臣に裏切る者がいなかったことも、この人についていきたいと思わせる空気を漂わせていたことも全て武田信玄の芯のある心からだと思います。

とまと

とまとさん

1位(100点)の評価

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上杉謙信の一撃を受け止める力

武田信玄と聞くと信玄堤や甲州金、天下の知将などのイメージがありますが、一番有名なのは川中島の戦いです。昔から上杉謙信と信玄の一騎打ちが有名で小説や映像でも描かれてきました。よくよく考えると馬上から振り下ろす力を鉄扇で受け止めるなんて結構力がいる気がするんです。それもとっさにです。信玄も必死だったかもしれませんが、もし本当だとすれば相当の反射神経と武勇です。

アールライト

アールライトさん

2位(90点)の評価

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勇ましい

かっこ良さと、勇ましさや村人に優しく、村人からも評価が高く、みんなが慕う素晴らしい戦国武将です。それに信玄堤も実は農民のためで洪水が起きない為でもあるので、すごくそんな部分を尊敬しています。戦でもあの上杉謙信と一騎打ちするという川中島の戦いも繰り広げるほどの戦強さもあるからです。

城マニア

城マニアさん

1位(100点)の評価

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2上杉謙信

78.8(2,455人が評価)
上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。 (引用元: Wikipedia)

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負けない美学を持つ武将

上杉謙信は、武田信玄のように多くの有力な家臣を携えているわけでもありません。また織田信長や豊臣秀吉のように圧倒的な軍事力で相手を圧倒させる武将でもありません。
そう言うとそんなに強い武将ではないのでは?と思うかもしれませんが、私は上杉謙信こそ「人生」という戦場を戦う上で最も強い戦い方をした武将であると考えます。

上杉謙信は、決して無理をしない戦国武将でした、また謙信自信、家臣そして領国が損をしないようにするためにはどうしたらよいかということを第一にあくまでも冷静に分析して判断して行動していく武将であるということが最近のの上杉謙信の書[続きを読む]

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん

1位(100点)の評価

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武勇と知

「最強」という基準で考えた際に、人をまとめるトップとしての力と、個人としての武道の力両方が必要だと考えた際に、パッと思いついたのは川中島の戦いの主役である上杉謙信と武田信玄でした。そして上杉謙信を選んだ理由としまして、謙信は自らのことを毘沙門天の生まれ変わりとして信じ、戦を好み、名を馳せたためです。

ケイ

ケイさん

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義理に厚く日本史上で希代の名将

私利私欲を好まず、弱者を救援し本来在るべき秩序をもって正すことを生涯の理念とし、乱世の世に平和をもたらすことに戦った。また青紫蘇、金山で本国を豊かにし、上杉家九代目には鷹山公が最貧藩の米沢藩を救い、アメリカ、ケネディ大統領に最も尊敬する日本人と言わしめたほど名君を輩出するのは、戦国に唱えた上杉謙信公の義の精神が脈々と受け継がれた以外にはない、今の日本人には忘れ去られたもの。あの時代にこのように人として為さなければならないことを成した謙信公は戦国随一の名将です。

バカボンさん

1位(100点)の評価

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3織田信長

77.4(1,906人が評価)
織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。(引用元: Wikipedia)

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かっこいい革命家!

織田信長は知名度が圧倒的に高いですが、やはりすごい人なのです。いろんなアイデアで戦国時代を暴れまわった革命家。桶狭間の戦いで4万の大軍を2千人の戦士で破ってしまうというエピソードにもしびれました。本能寺で自死するという最期もかっこいいです。

ストラ君

ストラ君さん

2位(90点)の評価

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すごい

信長が 天下をほぼ統一出来たのは「経済戦略のたまもの」だと
思います。例えば信長は「兵農分離」や「鉄砲の大量使用」などで周辺の戦国大名たちを倒してきましたが、どちらにも多額の費用がかかります。なぜなら、「兵農分離」というのは、一年中働ける常備兵を整えるシステムです。常備兵の方が、農閑期に農民を集めてつくる軍隊よりも、断然強くなります。でも、常備兵を持つには、それを雇用しなけ
ればならないので、莫大な経費がかかります。
また、鉄砲という当時の新兵器を大量に持っている方が、戦さに強くなるのは当然ですよね。でも、
鉄砲を大量に用意するには、[続きを読む]

雲雀さん

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尾張の大うつけから第六天魔王

織田信長が僕の知った最初の戦国武将でその生涯がすばらし。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り松平元康(後の徳川家康)と同盟し天下布武の旗印を掲げ足利義昭を奉じて上洛し浅井長政 朝倉義景を滅ぼし足利義昭を追放して甲斐武田氏を甲州征伐で滅ぼして本能寺の変で自害

織田信長さん

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4真田幸村(真田信繁)

76.6(1,556人が評価)
真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。(引用元: Wikipedia)

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家康を追い詰めた男

大河ドラマの主人公になったことでも話題の人物で、知将と恐れられた昌幸から学んだ戦術と激しい領地争いのなかで培われたハングリー精神を持った人物です。大坂の陣の時には家康は、その才幹を恐れて50万石で召し抱えると申し出て引き抜こうとした逸話がある程です。もちろん当時にそのような余分な土地が余っている筈もなく、空手形に笑って幸村も拒否をしました。いざ戦いが始まると真田丸での攻防や茶臼山の家康本陣へと迫るなど、余裕を見せていた徳川方の肝を冷やす活躍をしました。絶対的な勝者に対して必死にあらがう戦士としてカッコよさがあります。

アールライト

アールライトさん

1位(100点)の評価

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勇気と忠義の男

真田幸村は、関ケ原の戦いのときに徳川家忠の8000の兵を上田城の
2000の兵で足止めをしました。
大坂冬の陣では真田丸を作って徳川軍を大阪城に入らせないようにしました。 ですが、豊臣 秀頼が、徳川家康の講和条件の「真田丸を壊す」「堀の埋め立て」というのに乗ってしまって、真田幸村が考えた策が壊されました。
そして大坂夏の陣の時は、どんどん散ってった豊臣家臣団の中で、
独り覚悟を決め徳川本陣へと駆け込みました。
それで家康は「もうだめだ」とあきらめるほど追い詰めました。
死んでしまいましたが、勇気と賢さそして忠義のある武将だと言えます。[続きを読む]

戦国マニア君さん

4位(92点)の評価

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戦国最強武将

なんといってもあの徳川家康を大坂夏の陣であと1歩まで追い詰めたので天才の作戦を考えた戦国最強武将と言ってもおかしくはないでしょう。兵の人数で負けたので多ければ必ず勝っていたでしょう。何と言っても勇ましい。もし、勝っていたら豊臣家、真田家が存在していた。日本はどうなっていただろう?。

ゲストさん

1位(100点)の評価

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まだまだ採点・コメントが少ない候補です。ご存知の場合はぜひ採点をお願いします!

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5伊達政宗

76.2(1,268人が評価)
伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。 (引用元: Wikipedia)

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奥州の未来を変えた大英雄

周辺の反対する大名とは堂々と戦って勢力を広げたが、天下まであと一歩の秀吉には降伏し、伊達家の未来を守った。
政宗は仙台藩を発展させ、豊かにさせ、それが今も続いている。
運によって失敗するも、スペインと同盟を組むという偉大な挑戦は政宗だからこそ目指せた。

ゲスト1さん

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伊達家の未来を守った英雄

伊達政宗は片目の視力を失っているが、裏切った家臣やそれに味方した奥州の大名たちに堂々と戦いに挑んで大勝利した。このことから奥州の英雄と言える。
天下統一が目前に迫っているという秀吉には従った。このことから、伊達家の未来を守れる大名だということがいえ、大名の当主としてふさしいと思う。

ゲストさん

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奥州の未来を変えた大英雄

周りの戦国大名とは堂々と戦い、勢力を大幅に増やすが、秀吉には降伏し、政宗は自分の未来を守れる武将だということがわかる。
さらに仙台藩の発展に力を尽くした。
しかも、秀吉に罪を疑われたときに、白装束を着たり黄金の十字の柱を掲げたりして与えられる罰を少なくしたということもあり、政宗は天才です。

ゲスト1さん

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6本多忠勝

75.4(1,439人が評価)
本多忠勝

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。 (引用元: Wikipedia)

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天下を取った家康ですらもったいないほどの逸材

「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」という言葉が残っているほどの武将です。徳川家康に仕えいいなおまさらと共に徳川四天王とされた人物ですが彼のすごいところはその戦績です。
生涯で57度もの合戦に参戦したのに一度も傷を受けていないのです。しかもほとんどの戦いで最前線で戦っているのにこのせいかというのがすごいです。

また、三方ヶ原の戦いで2万7000人の武田軍をわずか3000人の兵で進軍を止めました。こういうタイプの武将は戦国時代初期においては強い武将として君臨するのですが、戦国時代も終わり頃になるとなかなか芽を出さない場合が[続きを読む]

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん

2位(90点)の評価

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徳川四天王の中の最強

猛将という意味ですぐに思いつくのは忠勝と山県昌景です。
本多忠勝は三方原の戦いや関ヶ原の戦いで大きい活躍を見せて武田でも恐れた。長さ6mの蜻蛉切で敵を苦しめた強さは徳川の家臣で最強と言って良いぐらいです。流石の井伊直政や山県昌景に勝るでしょう。

ゲスト1さん

4位(96点)の評価

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家康といえば本多忠勝

家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八という有名な言葉が残っているほど知名度が高い人物で、人生で57度の合戦に挑み一度も傷を受けなかったのが凄いです。参加したのは天下の武田信玄や関ヶ原合戦といった有名なものばかりで、徳川家の主要な戦いにすべて参加している豪傑です。彼の武勇には敵味方を問わず称賛したとの事。

アールライト

アールライトさん

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7島津義弘

73.0(965人が評価)
島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている。 (引用元: Wikipedia)

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島津の退き口

鬼島津や島津の退き口で超!有名な戦国武将です。
あの無謀な関ヶ原の戦いでの家康本陣に突撃し見事薩摩(現在の鹿児島県の一部)に生還した。
でも・・・それはたくさんの兵や島津豊久などなど義弘を慕っていた人たちの活躍がとても大きいです。
そして島津家は幕末に西郷隆盛などの幕末や明治に貢献したひとをたくさん排出してますね。
本当!にすきですね
(武田信玄の次に)

祖先武田家家臣だった人さん

2位(99点)の評価

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島津すごい

関ケ原の戦いでの「捨てガマリ」がすごかった!まず、捨てがまりはしんがりに座禅陣(狙撃手)を置き捨てにして、本隊が逃げる作戦。残された兵は、命を捨てて防戦。さらに追って来る敵にも新手の座禅陣を残して食い止めて時間を稼ぐ間に大将が逃げる。そして、千五百もいた兵が80人になっていたという。俺が思うに、当たり前だが命をかけて自分らが死ぬ確率が高いのに逃げず、最後まで戦ったのは、やはり絆があったからだと思う。
 
 

島津氏に仕えたいさん

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釣りのーーーーーー伏せーーーーーー

義弘には先を見透しているかのようなふうに後々相手を追い込んでいく強さがとても強く全盛期では九州地方をほぼ統一していた秀吉の朝鮮出兵では酒川のたたかいでは約二十万の大軍を約六千で大勝し八万もの兵を討ったのだとか。
関ヶ原の戦いでは徳川軍を突破し薩摩へ帰ったことが有名です

Hikaさん

1位(100点)の評価

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8毛利元就

72.2(907人が評価)
毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。(引用元: Wikipedia)

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頭脳

頭脳戦が得意なイメージがあり野望がなく天下は狙わなかったが野望があったら天下を取っていたんじゃないか・・・?と思う
ただの陪臣(家臣の家臣)だったのに厳島の戦いで一気に身を起こして中国地方の覇者に!
三本の矢の教えも実話ではないけど元就らしい
跡継ぎの毛利輝元は武将としてはうんまあ2流だけど・・・
でも輝元を小早川隆景と吉川広家の二人でもり立てた
頭脳戦は最強何じゃないかと思う

祖先武田家家臣だった人さん

8位(80点)の評価

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策略を駆使して中国地方の覇者となった謀神

毛利元就は安芸の戦国武将で、毛利弘元の子です。厳島の戦いで5倍の兵力を持った陶晴賢を撃破し、その後尼子氏も滅ぼして中国地方を支配しました。
毛利元就の強いポイントは非常に高い知略で、その謀略によって、厳島の戦いでは大軍の陶晴賢を奇襲攻撃によって翻弄しました。
また、毛利元就は統率力も高く、柔軟な考え方と謙虚な姿勢で、多くの国人が従いました。3本矢の教えや「百万一心」など、みんなで協力することの大切さも理解していました。

ゲストさん

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頭が良すぎ

子供を養子に出してその家の当主にしたり優れた作戦で勝ち続けて実力で成り上がって、最終的には中国地方一帯、さらに北九州までも自分の領土にしてしまうのは凄い。100万石以上でしょうね。
家臣からの信頼も厚いし、三本の矢の教えなど、今に通じる教えも多く残している。

大和武士さん

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9真田昌幸

71.9(589人が評価)
真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある (引用元: Wikipedia)

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武力は普通だけど敵をまかすための策を知っている。

徳川秀忠の38000人の軍をたった3500で撃退させ、徳川秀忠軍に多くの死傷者を出させた、武力は普通だけど敵を負かすための策を知っている武将

ゲストさん

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黒田より強い?

昌幸は秀忠率いる38000の軍をたった2000の兵で圧勝するなんて超凄い!(秀忠が弱すぎるとも言える。)
まさか黒田よりも強いかもしれない。

ゲストさん

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策略持って大軍を撃退させた名将

鳥居元忠の7000の大軍に2000の兵で大勝した天才。
11倍もの軍勢を持つ徳川秀忠軍にも楽勝したという事実。
昌幸は家康に恐れられた。

ゲスト1さん

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10黒田官兵衛(黒田孝高)

70.7(722人が評価)
黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。 (引用元: Wikipedia)

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恐れられた軍師

秀長・丹波・前田・上杉・小早川などと秀吉が信頼する家臣ならたくさんいる。
しかし、その中でも黒田官兵衛は秀吉からとても恐れられたほどであった。
山崎の戦い後の秀吉の家臣の中で家康に次いで智謀に優れている。

ゲストさん

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頭が良い

なんと言っても頭のキレの良さが秀吉の天下統一の一番の手助けになったと思います。この方は、様々な点で色んな所に顔が出るほど多くの方に知られていると思います。その中でも、北条政宗などを説得できたなど本当に凄いかたです。

てんてん

てんてんさん

4位(85点)の評価

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恐れられた天才軍師

秀吉にも恐れられた天才軍師で、官兵衛がついた秀吉の合戦ではいつも勝っている。
作戦的に考えると「秀吉が勝った」よりも「官兵衛が勝った」みたいな感じ。

ゲスト1さん

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11徳川家康

68.3(1,172人が評価)
徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。(引用元: Wikipedia)

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これこそ天下人

徳川家康は健康に気を使っていたり、滅びた大名の家臣を取り入れたり、
自分に勝った大名の優れた作戦を取り入れたりしたことが天下につながった。
しかも天下統一後も幕府で武家諸法度などのさまざまな法律を作って対抗できる大名がなくなるようにして幕府を固めたこともすごいと思う。

ゲストさん

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これこそ戦国最強

滅びた大名の家臣を受け入れたり、過去に自分に勝った武将の作戦を真似したり、健康に気を使ったりして天下を取ったという最強王者。
秀吉の2倍以上の大軍に待ち伏せ攻撃をして大勝利したり、関ヶ原の戦いでは事前に裏切り工作をして大人数の敵に勝ったり、大坂の陣でも真田に威力では劣ったものの、策略のうまさを使って最終的に大勝利したりと、最強王者の頭を使って天下統一した。

ゲスト1さん

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これこそ最強の戦国武将

まず並外れた作戦を立てる能力です。姉川の戦い・高天神城の戦い・長久手の戦い・関ヶ原の戦い・大坂夏の陣などが挙げられます。特に大阪の陣では力では真田や後藤がいる方に劣ったものの、堀埋め作戦を考えて大勝利。
次に、政治の力です。大名の領地や役職など、幕府の支配を固めました。
誰も逆らえないようにしたこの幕府の支配体制は最強と言っても過言ではありません。

ゲスト1さん

1位(100点)の評価

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12豊臣秀吉

68.1(861人が評価)
豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。(引用元: Wikipedia)

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頭脳明晰な猿!

いやー豊臣秀吉といったら初めての天下統一者!すごい!誰もが思い付かないような作戦をホイホイと編み出し、部下からの信頼も厚かったとか!織田信長に仕えたということもあり、子供の頃から戦国の才能があったのかも、、、
でも自分に自惚れたのか世界一の秀吉にしようとか考えて朝鮮に話しても拒否られ朝鮮軍を倒せるわけもなく、、、ちょっと自惚れてたところもあったからこの点数!

あっきーさん

2位(90点)の評価

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最強の外交武将

秀吉は、個人的な軍事力で相手を圧倒するわけではありません。どこが強いのかと言うと、圧倒的な外交力です。人たらしと言われるほどの話上手で、徳川家康や、竹中半兵衛をも味方につけたのです。

歴史マニア(中2)さん

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天下をとったお人よし

農民から天下人にまで上り詰めた日本史でも類を見ないほどの大物になった。優秀な家臣も多く。海外の人は秀吉のことをかなりの知恵者と言っていた。しかしあまり武力は高くない。しかしそれを補う家臣がいる。最後の方の老害ぶりがひどい

張遼最強さん

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13竹中重治(竹中半兵衛)

66.8(313人が評価)
竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。 (引用元: Wikipedia)

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最強の頭脳

稲葉山城をたった17人でうばった。また、秀吉の軍師になり、秀吉に知恵を授けました。また、小谷城攻略の時には、本丸と小丸を分断させるため、真ん中にある京極丸を落とす作戦を打ち出したりし、大活躍しました。この男がいなければ秀吉が天下統一するのは不可能だったはず。

歴史マニア(中2)さん

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両兵衛だよね

竹中 重治は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、軍師。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利。 羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

小田信長さん

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名軍師

半兵衛は戦わずして敵を配下に入れることであった。
武力的に考えるとそこまで強いわけではないと言えるが、天下を取るには必要な存在である。

ゲストさん

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14加藤清正

66.3(244人が評価)
加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。 (引用元: Wikipedia)

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くさ

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。

概要
通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも、清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。これは、ひとえに新田開発や治水工事で実績を上げたことによるところが大きい。

豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。文禄の役の際の京城攻めでは、出世を競う小西行長と一番乗りを争った。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原[続きを読む]

小田信長さん

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賤ヶ岳七本槍

若い頃から秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍に数えられたり、城造りの名人だったり、朝鮮半島の奥地までに攻め込んだり、熊本の河川工事をおこなった名のある名将。秀吉にとってなくてはならない家臣。

ゲスト 1さん

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秀吉の重臣

賤ヶ岳の7本槍に数えられた清正は城造りの名人としても知られ、肥後を与えられた。
また、肥後を発展させた清正は領民からも慕われた。

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15井伊直政

66.0(300人が評価)
井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。 (引用元: Wikipedia)

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徳川を支えた武将

直政は頭も良く、勇敢で赤備えを率いた。
関ヶ原の戦いの時に先陣を正則から奪ったことが、天下人への忠誠心を持っていることがわかる。

ゲスト1さん

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超勇敢

徳川四天王の1人で身体中が傷だらけだったと言われるほど勇敢に戦い、赤備えを引き継いだ。
関ヶ原の戦いで先陣の地位を正則からとった

ゲスト 1さん

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勇敢な武勇の王者に近い武将

身体中が傷だらけだったというほど勇敢に戦った徳川四天王。
四天王としての価値があり、武勇の王者の世界に入り込んでいるほど強い。

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16北条氏康

64.8(467人が評価)
北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。 (引用元: Wikipedia)

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関東最強

河越夜戦の時の騙し討ちはすごかった!
上杉や武田にも同等に戦えたから強いと思う。
また、領地の政治もまともに力を入れることができた。

ゲストさん

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関東の雄

氏康は見事な騙し討ち作戦と夜襲攻め作戦を合わせて上杉の大軍に大勝利した。
上杉・武田などと強力な大名と複雑な関係を結んでいたが、関東に攻めてきたときはすぐに撃退させた。政治も安定しており、関東の雄。

ゲスト1さん

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戦上手

氏康は関東に攻めてくる武田・上杉を関東から撤退させるほどの威力を持っていた。
しかし、上杉を滅ぼすとなると難しいであろう。

ゲストさん

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17片倉小十郎

64.8(126人が評価)

名軍師

政宗を守り続けた政宗への忠誠心の高い名軍師。
人取り橋の戦いの時は「我こそが政宗である」と言って敵を自分に引きつけて政宗を救った活躍が有名。奥州の英傑の政宗を支え続けた。

ゲスト1さん

19位(83点)の評価

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政宗を守った名軍師

伊達の未来を守る軍師として活躍し、人取橋の戦いでは自分に敵を引きつけて政宗を守った。秀吉から家臣になることを頼まれたほどであった。

ゲスト1さん

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伊達の最強軍師

小十郎は伊達家の未来を支えた政宗にとって重要な家臣となった。

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18長宗我部元親

64.7(384人が評価)
長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 (引用元: Wikipedia)

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四国の最強王者

長宗我部家は元々は土佐の極の一部の小領主であったが、24年で土佐を平定するほど強い大名。
秀吉に3倍もの大軍で四国を攻められた時には降伏し、土佐一国の大名になった。でも、元親は、土佐は森林が多いことから、平野部に大きな城を移し、街道を整備した。このことから、元親は国の整備に力を入れられるし、勇猛な武将だったといえる。

ゲストさん

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四国の覇者

長宗我部家は元々は土佐の極の一部の小領主であったが、元親は直ぐに四国を平定し、信長そして秀吉を恐れさせた勇猛な武将。
秀吉に3倍もの大軍で四国を攻められた時には降伏し、土佐一国の大名になった。でも、元親は、土佐は森林が多いことから、平野部に大きな城を移し、街道を整備した。このことから、元親は国の整備に力を入れられる武将だったといえる。

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四国の覇王

秀吉に攻められたときに元親と秀吉の兵の数が同等であれば秀吉は家康を従わせる前だったり、官兵衛が作戦を考えなければ戦いで勝てただろう。

ゲストさん

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19立花宗茂

64.6(521人が評価)
立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。 (引用元: Wikipedia)

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最強

戦で一回も負けておらず、東の本田、西の立花と言われるほどの強さです(東の本田とはおそらく忠勝をさす)。ちなみに関ヶ原は宗茂の指示じゃないです。つまり立花宗茂は最強です。

歴史マニア(中2)さん

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西日本最強の武

高橋紹運の息子で子供に恵まれなかった立花道雪の養子になった
二人の最強が師でありかなりのスパルタのため本田忠勝と同じぐらいの
武を持ちそれでかなり高い知力を持っている

張遼最強さん

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大友一の家臣

大軍の島津軍が柳川状に攻めてきた時に撃退した。
関ヶ原の戦いで負けたが、実力は認められた。

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20大谷吉継

64.3(139人が評価)
大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。(引用元: Wikipedia)

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真面目に戦った

吉継は関ヶ原の時、三成の誘いによって西軍についても真面目に戦い、もし家康側についていたら70万石ぐらいいい褒美があるだろう。

ゲスト1さん

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友のために戦い散った男

病気に侵されているため歩くことができず目も悪かったがそれを補う知略を持っている。関ヶ原の戦いで裏切った小早川を止め続け他の隊が裏切るまで持ち堪えた

張遼最強さん

20位(81点)の評価

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知略、駆け引きにおいて超強い

実は、関ヶ原の戦いでは、小早川が裏切ることがわかっていたので、脇坂安治と協力して小早川ロックを作ろうとしました。脇坂まで裏切ってしまったので失敗して小早川の大軍に討たれたものの、成功していれば勝敗は逆だったと思います。

歴史マニア(中2)さん

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21

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