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ゲストさんの「戦国武将最強ランキング」

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更新日: 2022/09/13

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ランキング結果

1徳川家康

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。

これこそ戦国最強

家康は最強でございます。
理由1 豊臣10万を家康が3.5万で圧倒し、秀吉も1回戦った後は戦をせずに降伏させる道を選んだ。
理由2 家康は優秀な人を身分にこだわらずに出世させたり、家臣にしたりして自分の力を強めた。
理由3 三方原以外の戦で全勝し、敵だった信長も実力を認めていたこと。
理由4 いつも素晴らしい作戦を練って勢いで勝る相手に勝ってきたこ とです。真田信繁にも大砲と掘り埋めを使って勝ったし、大谷・島津・立花・宇喜多がいる西軍にも裏切り作戦で大勝。秀吉にさえボコボコに叩きつけてやった。ボクシングであれば秀吉の完全なる判定負けとなるだろう。

2北条氏康

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。

関東の雄であり、東日本統一を狙えた武将

伊達にも勝りそうな武力と頭脳。
大軍の上杉憲政に嘘の降伏をした後に上杉憲政が油断したのを狙って夜襲を仕掛けた神作戦が順位への影響が高いです。
また、上杉・武田の軍勢を関東から退けたこともある。

3伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

奥州最強の独眼竜

政宗は絶対強い。
理由1 秀吉に罪を疑われた時に秀吉の性格を利用して罰を最小限にとどめられたこと。
理由2 戦で負けても諦めずに奥州1の大名へと成長したこと。
理由3 周囲から恐れられて連合軍の敵と戦ったほど勇敢だったこと。
理由4 スペインとの軍事同盟などと偉大な発想をして家康・秀忠がいなかったら実現できたということ。

4本多忠勝

本多忠勝

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

徳川の豪傑であり、武勇の王者

武田も恐れたほどの勇者で槍の先が鋭い蜻蛉切を使っていた。
武勇の王者で、山県昌景よりも強い。

5真田昌幸

真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある

神戦略を思いついた天才

徳川秀忠軍38000の軍を3500の兵でボコボコに叩きつけた天才。
真田の存続方法を実行させた。

5毛利元就

毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。

中国の覇王

厳島の戦いや三本の矢の教えで毛利家を盛り立てた中国の覇王で、中国・四国・九州でずっと敵と戦っていれば統一できたかもしれない。

7井伊直政

井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

勇敢な武勇の王者に近い武将

身体中が傷だらけだったというほど勇敢に戦った徳川四天王。
四天王としての価値があり、武勇の王者の世界に入り込んでいるほど強い。

8雑賀孫市

雑賀孫市

鈴木 孫一(すずき まごいち)は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一という名でも知られる。表記ゆれとして「孫市」の名も知られる。

すごい鉄砲集団の指導者

信長の50倍もの軍勢をボコボコにした鉄砲集団の指導者。
鉄砲と地の利を活用した作戦で信長を何度も苦しめた卑怯者で恐れられていただろう。

9黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

秀吉も恐れた天才軍師

秀吉も恐れ、家康を討ち取って天下を取ろうとした人。
その野望は成功するか分からないが、官兵衛が味方についた大名が天下を統一したことは確かである。秀吉から豊臣軍を指導する役目を奪ったかのような感じ。官兵衛は無敗でもある。

10竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

名軍師

官兵衛と共に秀吉を出世させた名軍師。
戦わずに敵を味方にするのが得意で天下人の軍師としてふさわしい。

11武田信玄

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。

弱くないけどあまり強くない

政治ができていいて強い武将を出世させた恵まれていてこういう意味では強いけど、鉄砲隊との勝負には和睦することしかできないということで、また、村上に負けていた時もあったし、どちらかといえば強いけどそこまで誇り高き強さを持っているわけでない。

12北条氏政

北条氏政

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。

強いのか?弱いのか?

小田原の陣の時に小田原に大量な食料を持って立て篭もり、総構えを築いた天下人にとっての最後の敵みたいな感じがする。
でも、いち早く降伏しなかったから切腹された。大軍には敵わなかったのだ。

武勇あんまなさそうだけど三成には勝る

ちょっと頼りなさそうなイメージ。
それでも堤防決壊させた卑怯さから見ればちょと強いかもしれない。

14豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。

優秀家臣がいないと何もできない

秀吉は弱いです。
理由1 秀吉は戦ではあんまり活躍していない。
賤ヶ岳では加藤・黒田・福島の活躍だけだったし、山崎・備中高松城の時は黒田軍が敵に勝ったようなもので、小田原の時も徳川・蒲生の他 、家臣の水軍しか使っていなかったから。
理由2 豊臣を衰えさせたり、無茶なことをやっていたこと。
千利休・秀次を切腹させたことも、朝鮮出兵をして多くの死者を出したのも、秀吉のせいだったから。

15織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

戦国一過大評価されていて、弱すぎる人

コメントを見ていると信長が強いと言っている方がほとんどですが、
優秀な家臣がたくさんいて、人数も多いから力を合わせることで天下とりそうだったというだけで、信長に評価するのは違うと思います。
信長自身は朝倉・浅井にやられていて、敗走する姿や負けまくっている姿は多いです。明智・柴田・丹波・黒田・徳川がいないと直ぐに滅びてしまうのが信長です。

16石田三成

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

戦国最弱王

関ヶ原の戦いで人望と武勇が原因でボロ負けた。
弱すぎる。83位なんていう価値なんかない。

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