みんなのランキング

Jokerさんの「キングダムキャラランキング」

5 1
更新日: 2024/07/14

Joker

ランキング結果をSNSでシェアしよう

Twitterでシェア

ランキング結果

かっこいい生き様

秦王政10年(紀元前237年)、将軍になる。

秦王政11年(紀元前236年)、王翦・楊端和らと趙の鄴を攻めて、先ずその周辺の9城を取る。桓齮はそこに留まり、王翦が一人で閼与・鄴などを落とす。

秦王政13年(紀元前234年)、趙の平陽・武城を攻めて、趙将の扈輒を武遂で討ち、趙兵の首を斬ること10万であった。

秦王政14年(紀元前233年)、再び趙を攻めて、平陽と武城を平定した。さらに、赤麗と宜安を攻め、宜安ではその将軍を討ったものの、趙の大将軍の李牧に肥下の戦いで敗れた。『戦国策』趙策四によれば、この敗戦で李牧に討たれたとされる[1]。一方、『史記』廉頗藺相如列伝では大敗したのち、敗走した。

味方でよかった

秦王政元年(紀元前246年)、秦王政の時代に御史大夫となり呂不韋を補佐。

秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと叔父[2]の昌文君(公子顛)と共に鎮圧した。

秦王政10年(紀元前237年)、呂不韋が相国を罷免された後は、嫪毐の反乱を鎮圧した功績が評され右丞相となった。

秦王政21年(紀元前226年)、楚攻略に必要な兵数をめぐっての議論で王翦が将軍を罷免された際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。

また、秦は秦王政17年(紀元前230年)に滅ぼした韓の旧都新鄭(現在の河南省鄭州市新鄭市)で韓の旧臣による反乱が起きたため、鎮圧すると韓王安を処刑してこれを完全に滅ぼした[3]。

このために楚の旧都郢陳[4](現在の河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため、楚の公子でもある昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた[5]。

秦王政22年(紀元前225年)、李信と蒙恬率いる20万の秦軍が楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)へ向け侵攻。秦軍が寿春に迫ったとき昌平君がいる郢陳で反乱が起き、李信の軍がこれを討ちに向かったところを楚の将軍項燕の奇襲により秦軍は壊滅的打撃を受けた[6]。

秦王政24年(紀元前223年)、異母兄弟[7]の楚王負芻が秦に捕らえられ楚が滅亡すると、項燕により淮南で楚王に立てられ秦に背いたが、王翦・蒙武に敗れて戦死した。

仮面かっこよ

始皇11年)、桓齮・楊端和らと趙の鄴を攻めて、先ず9城を取る。王翦は一人で閼与などを攻める。それから、皆兵をあわせて一軍とした。将軍になると18日間で軍中の斗食以下の功労のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いに編成した。そして、それまで落とせなかった鄴などを落とす。

紀元前229年(始皇18年)、秦は王翦に大軍の指揮を執らせ、羌瘣・楊端和とともに趙を攻めさせた。王翦は上郡地方の軍の将として、趙の井陘を降した。趙将李牧と司馬尚が王翦の相手となったが、讒言によって李牧は誅殺、司馬尚は更迭された[1][2]。その後、趙葱と斉将顔聚が彼らの地位に代わった[1]。

紀元前228年(始皇19年)、王翦は李牧誅殺の3か月後に趙葱・顔聚を破り[2]、趙都の邯鄲を陥落させた[3]。また、羌瘣とともに東陽を平定し、逃げていた趙の幽繆王を捕らえた[4]。しかし、趙の公子嘉が自立して代王になる。さらに兵を指揮して燕を攻めようとして中山(現在の山西省北部)に駐屯した。

紀元前227年(始皇20年)、辛勝とともに燕を攻めて、燕・代連合軍を易水の西に破った[4]。

紀元前226年(始皇21年)、子の王賁とともに燕都の薊を攻め、燕の太子丹の軍を破って、薊を平定した[4]。このとき、太子丹の首を得た[4][5]。しかし、燕王喜は遼東に逃げて、なお命脈を保った。この年、老病の故をもって、将軍を辞して帰る。

紀元前224年(始皇23年)、秦王政より要請を受け、再び軍の将として、楚を攻めた。河南の陳から南の平輿までの地を占領して、楚王負芻を捕らえる。

紀元前223年(始皇24年)、蒙武と楚を攻める。楚王となっていた(楚の公子で、秦で呂不韋の補佐をしていた)昌平君は戦死し、将軍の項燕は自殺した。

紀元前222年(始皇25年)、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、ここに会稽郡を置いた。翌年、秦は斉を滅亡させ、中華圏を統一する。

このランキングに共感できましたか?

総合ランキングをみる

エンタメの新着記事

おすすめのランキング

あわせて読みたいランキング