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柚子さんの「軍師ランキング」

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更新日: 2020/08/29

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ランキング結果

1黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

時世を読む軍師

豊臣秀吉に恐れられる人物として徳川家康と並び名指しされた人物の一人です。秀吉に支えながらもその実力を知らしめ、信長のが討たれた本能寺の変後、誰よりも早く秀吉が明智光秀を討てたのは、黒田官兵衛あってこそとも言われています。秀吉亡き後は、関ヶ原で徳川側東軍につくという時流を読む力が素晴らしい人物だったとも思われます。

2竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

信長が欲しがった若き才能

黒田官兵衛と並び、豊臣秀吉に仕えニ兵衛と呼ばれ、その才覚を知らしめていたた人物です。元々は斎藤家に仕えており、初陣では大将代理として急な籠城戦を行うなど、初陣で才覚を表していました。長篠の戦いでは、武田軍の陽動作戦を見事に見破るなどの逸話も残るほどの人物です。若くして病気で亡くなっていると言われていますが、最後まで陣中にある事を望むような人物だったとも言われています。

3小早川隆景

小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。

毛利三本の矢の一人

毛利元就に毛利隆元、吉川元春と並び三本の矢として毛利家を守るよう教えを受けた一人です。本能寺の変後は、中国大返しの豊臣秀吉を追随することなく、時流を読みその後の秀吉勝利にかけ、豊臣家につく形で毛利家を守ることに成功しています。そして秀吉からの信頼もあり豊臣五大老に名を連ねていました。

4山本勘助

山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。

遅咲きの放浪軍師

武田信玄に仕えていた事が有名な軍師ですが、それまでは今川に仕えようとし、その醜い見た目から叶わず、50歳頃まで放浪していたとも言われる謎の多い人物です。しかし、まだ甲斐を治めたばかりの武田にとっては、山本勘助を雇うことが武田家の起爆剤になったと言われるほどの実力があったそうです。

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