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【投票結果 1~79位】戦国時代の軍師 最強ランキング!歴史上最も優れた智将は?

竹中重治(竹中半兵衛)黒田官兵衛(黒田孝高)真田昌幸真田幸村(真田信繁)片倉景綱山本勘助直江兼続毛利元就武田信玄上杉謙信

このお題は投票により総合ランキングが決定

ランクイン数79
投票参加者数816
投票数4,336

みんなの投票で「戦国時代の軍師最強ランキング」を決定!その智謀と策略で、戦国武将を陰ながら支えた歴代の名軍師たち。型破りの発想で豊臣秀吉の軍師として活躍した「黒田官兵衛」をはじめ、イケメンだったとされる天才軍師「竹中半兵衛」や、「我が眼の如し」と全幅の信頼を寄せられた武田信玄の家臣「真田昌幸」、謎に包まれた伝説の軍師「山本勘助」など、数多くの名軍師が戦国時代に誕生しました。あなたが最も優れていると考える、戦国時代の軍師(智将)に投票してください。

最終更新日: 2024/11/20

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ランキングの前に

1分でわかる「軍師」

軍師は家臣のエリート

策略を練り主君を勝利に導く存在が「軍師」。家臣のなかでも特に優秀な人物が、軍師として登用されたとのことで、軍師という役職があるわけではありません。そのため知略の優れた家臣のことを、軍師と呼ぶこともあれば、智将と呼ぶこともあります。

戦国時代を生きた歴代の名軍師たち

常人には思いつきもしない策謀でピンチを脱し、主君に勝利を捧げた名軍師たち。戦国時代きっての天才軍師「黒田官兵衛」は、2014年に放送された大河ドラマ『軍師官兵衛』で、一躍注目を集めました。また、「竹中半兵衛」は1日で城を乗っ取ってしまうほどの策士でしたが、病に倒れ36歳の若さでこの世を去ったというエピソードがあります。ほかにも、2016年放送の大河ドラマ『真田丸』で一躍人気者になった「真田昌幸」や、武田軍のピンチを救った名軍師「山本勘助」など、歴史に名を残す策士は数多く存在します。

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このランキングの投票ルール

このランキングでは、「日本の戦国時代に活躍した軍師(智将)」に投票できます。歴史上のエピソードや、逸話などの要素から、あなたが最も優れていると考える軍師に投票してください。ちなみに、前述の通り軍師という役職は存在しないと言われているので、智謀に優れている戦国武将も投票OKとします。

ランキングの順位について

ランキングの順位は、ユーザーの投票によって決まります。「4つのボタン」または「ランキングを作成・編集する」から、投票対象のアイテムに1〜100の点数をつけることで、ランキング結果に影響を与える投票を行うことができます。

順位の決まり方・不正投票について

ランキング結果

\男女別・年代別などのランキングも見てみよう/

1竹中重治(竹中半兵衛)

84.9(363人が評価)
竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。 (引用元: Wikipedia)

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天下人になれるだけの実力がありながら生涯一軍師に徹した英哲

軍師という立場に飽き足らず、軍師から戦国大名ひいては天下人を目指す人も多いです。豊臣秀吉はまさしく軍師から天下人になった人ですし、かの明智光秀も、確かに本能寺の変を起こした本当の理由については歴史の謎に包まれていますが、やはり軍師の次のステップを目指したのではないかと考えられます。
しかし、この竹中半兵衛は生涯一軍師を貫きました。

主君である斎藤龍興を戒めるため、難攻不落と言われた稲葉山城をわずかな手勢で、しかもたった一日で陥落させました。しかもこれを二十歳そこそこの若さでやってしまうのです。さらにすごいのはその陥落させた稲葉山城を[続きを読む]

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん

1位(100点)の評価

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信長が欲しがった若き才能

黒田官兵衛と並び、豊臣秀吉に仕えニ兵衛と呼ばれ、その才覚を知らしめていたた人物です。元々は斎藤家に仕えており、初陣では大将代理として急な籠城戦を行うなど、初陣で才覚を表していました。長篠の戦いでは、武田軍の陽動作戦を見事に見破るなどの逸話も残るほどの人物です。若くして病気で亡くなっていると言われていますが、最後まで陣中にある事を望むような人物だったとも言われています。

柚子

柚子さん

2位(90点)の評価

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最高の軍師

秀吉の両兵衛のうち黒田官兵衛の方が派手に見えますが、竹中半兵衛こそ軍師の立場をわきまえた最高の軍師だと思います。タイプの違う官兵衛を育てたのではないかとも考えられます。秀吉の力を10から50にアップさせたのが官兵衛とすれば、官兵衛は1から10にアップ(10倍)させた軍師では。

オンライン

オンラインさん

1位(100点)の評価

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2黒田官兵衛(黒田孝高)

83.7(385人が評価)
黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。 (引用元: Wikipedia)

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戦国の世において人を殺すことをよしと思わなかった心優しき軍師

黒田官兵衛は出身が姫路ということもあり、非常に荒々しい郡市をイメージするかもしれません。ただ母方が京都の公家で和歌の教養が非常にあったこともあり、彼自身の和歌も非常に繊細で一見して戦国武将ではないのではと思わせるようなものが多いです。

また戦いにおいても出来る限り相手を殺さない戦略をとっています。
第2位の明智光秀のところで言ったように戦において逆転劇をすることが優れた軍師ではないと考えます。むしろ戦をする前にすでに勝敗が決しているような状態に持っていくことこそ有能な軍師と言えます。

このことは黒田官兵衛がキリシタン大名であったと[続きを読む]

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん

3位(75点)の評価

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時世を読む軍師

豊臣秀吉に恐れられる人物として徳川家康と並び名指しされた人物の一人です。秀吉に支えながらもその実力を知らしめ、信長のが討たれた本能寺の変後、誰よりも早く秀吉が明智光秀を討てたのは、黒田官兵衛あってこそとも言われています。秀吉亡き後は、関ヶ原で徳川側東軍につくという時流を読む力が素晴らしい人物だったとも思われます。

柚子

柚子さん

1位(100点)の評価

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野心家

軍師として優秀ですが、秘めた野心は大きく、関ケ原の戦いのときに黙々と九州を征圧していたのは凄いです。この時代にあって情報の重要さを理解していたのも凄いです。軍師というよりも既に戦国武将に位置づけられるかもしれません。半兵衛と比べ、人間的なミス(荒木村重からの幽閉、三成との不和、秀吉から警戒される、など)が多いような気がします。

オンライン

オンラインさん

2位(95点)の評価

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3真田昌幸

82.5(275人が評価)
真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある (引用元: Wikipedia)

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「表裏比興」の者、徳川の宿敵

若い頃には武田信玄より「我が目のごとし」と称賛された武将。優秀な兄二人がいてあとを継げそうになかった昌幸に信玄から別の名を用意してもらったほどである。徳川家康を破ったのは武田信玄のみだが、榊原康政、徳川秀忠、大久保忠世、鳥居元忠という徳川家の家臣を破っている。

家臣の武将がだーいすきさん

2位(98点)の評価

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江戸幕府2代将軍を圧倒した

昌幸はなんと言っても伏兵・土地・城などを有効に使って4倍もの兵力の強力な三河武士を圧倒的に破り、江戸幕府2代将軍の12倍以上の兵に圧勝した。
関ヶ原でどちらが勝っても真田毛が残れるように真田家を2つに分けたこともとてもすごい。

ゲスト1さん

4位(96点)の評価

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彼が戦の決め手!

強さは周りを自分の方に常に味方につけさせるだけの魅力があるところがポイント。危険な武将ではありますが、周りが従いたくなる、認めざるを得ない強さをもっているので1人よがりでない強さが彼の強みの1つ。

まるこーちゃん

まるこーちゃんさん

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4真田幸村(真田信繁)

77.7(227人が評価)
真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。(引用元: Wikipedia)

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知略だけでなく武勇も高い!

真田幸村は大坂の陣で大活躍をした武将。
冬の陣の真田丸の戦いでは前田利常、松平忠直、井伊直孝を、
夏の陣の道明寺の戦いでは伊達政宗を、
天王口の戦い(幸村が突撃した戦い)では毛利勝永と協力して、
秋田実季、松平忠直、水野勝成、本多忠朝、榊原直勝、保科正光、
諏訪忠恒、小笠原秀政を破っています。
また、家康を自害寸前まで追い詰めた武勇も高い武将です。
知略では、父:昌幸に似ているところもあります。
最後まで豊臣のために戦う、忠義心も高いすごい武将です。

家臣の武将がだーいすきさん

1位(100点)の評価

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忠義心溢れる天才

大阪冬の陣・夏の陣での徳川軍との戦における策略がすごい。城へのたった一つの出入り口に出丸を築き、敵の侵入を拒む作戦等には敵方も随分苦戦を強いられただろうなと思う。結果的に負けてしまいましたが、忠義心溢れる素晴らしい軍師。

smoothie

smoothieさん

2位(90点)の評価

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真田丸だよね

大河ドラマにも出てきた真田丸。ドラマにも出るほど強いって思ってる。大坂冬の陣では真田丸が大活躍した歴史もあるし,真田十勇士もすごくいい家来?ができていていいと思った!

にゃぁ^ - ^さん

1位(100点)の評価

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5片倉景綱

75.1(148人が評価)
片倉景綱

片倉 景綱(かたくら かげつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達家の家臣。伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称小十郎(こじゅうろう)は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。兜は、神符八日月前立筋兜。 (引用元: Wikipedia)

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伊達政宗を奥州の覇者に導いた『智の景綱』!!

片倉景綱は、伊達政宗の右目を抉り取ったなどの逸話がある他、政宗と正室の愛姫の間に子供が産まれていなかったという理由で、我が子を殺そうとしたなどのエピソードがあるほど、忠義心がハンパないです。
豊臣秀吉から5万石で家臣になってほしいとスカウトされたり、一国一城令の時代に徳川家康から特別に白石城に住むことを許されたり(政宗と引き離すことで、良からぬことをたくまないようにしたという説あり)、天下人たちからその才能は認められていたようです。
短気で暴走しがちな勢い任せの政宗と、冷静で策略家の景綱。この二人だからこそ、伊達家は奥羽の覇者になれた[続きを読む]

瑠波さん

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伊達家屈指の知恵と忠誠心!

片倉景綱は、伊達家に仕えた重臣。知略に富んでおり、人取橋の戦いでは政宗が敵に囲まれたとき、「私が政宗だ!」と言って敵を引き付けた。一方、忠誠心もすさまじく、秀吉に5万石で家臣にならないかと誘われたとき、主君への忠誠心から断った。また、彼に子供が生まれたとき、政宗には子供がいなかったため、「主君より先に子供を持つのは申し訳ない」と、その子を殺そうとしたといわれている。(政宗が止めたけど)江戸時代には一国一城令が出された後も家康は白石城の所有を認めていた。それは家康が彼の器量を認めたあかしとも言える。やはり逸話の面から見ても、最強の軍師は彼だと言えるでしょう。

MATSUDAさん

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地元の英雄

私が宮城県出身なので、やはり伊達政宗に仕えた片倉小十郎はとても好きです。伊達政宗が戦国時代にあそこまで出世できたのも、片倉小十郎の支えがあってこそだと思います。

水菜

水菜さん

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6山本勘助

73.9(224人が評価)
山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 (引用元: Wikipedia)

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武田軍を引っ張る 山本勘助

山本勘助は戦国時代、今川氏の元へゆき、家臣になりたいと頼んだが、今川氏は片目が見えないことと、手足が不自由だったことから役に立たないと判断し、追い出してしまったのだ…
しかし、武田氏が山本勘助を自ら家臣にして、大成功したのだ。

山本勘助は兵士達を指揮し、武田軍を、何度も勝利に導いた。だが…川中島の戦い(第四次)の上杉謙信からの攻撃が大きく、武田軍が負けそうになった。そこで武田信繁と山本勘助は必死に戦って、引き分けにまで、導いた。激しい攻撃を何度も受けていた信繁と勘助は戦死した。

あんちゃん

あんちゃんさん

3位(85点)の評価

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武田家に勘助あり

川中島の合戦で亡くなってしまいましたが、これは正直相手が悪すぎた。さすが軍神・上杉謙信です。まあラストは仕方ないとして、それまでの武田家を支えてきたのは間違いなく山本勘助でしょう。軍師としてだけでなく情報力もハンパなかったですし。もし川中島の合戦を生き延びていたら武田家滅亡もなかったのでは?と思います。

きゅうちゃん

きゅうちゃんさん

2位(95点)の評価

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遅咲きの放浪軍師

武田信玄に仕えていた事が有名な軍師ですが、それまでは今川に仕えようとし、その醜い見た目から叶わず、50歳頃まで放浪していたとも言われる謎の多い人物です。しかし、まだ甲斐を治めたばかりの武田にとっては、山本勘助を雇うことが武田家の起爆剤になったと言われるほどの実力があったそうです。

柚子

柚子さん

4位(70点)の評価

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7直江兼続

72.7(169人が評価)
直江兼続

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。直江兼続(樋口与六)はお船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えた。 (引用元: Wikipedia)

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徳川家康を口説き落とす

直江兼続は、直江状という文をだして、徳川家康を挑発、反論、さらには激怒までさせた武将。この直江状が関ヶ原の戦いの原因にもなるすごい文であった。

家臣の武将がだーいすきさん

5位(85点)の評価

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関ケ原の合戦のシナリオを描いた

上杉家の軍師として徳川家を倒すために石田三成と結んで天下を二分して戦うという関ケ原の合戦の壮大なシナリオを描いたのが画期的。

サトシ

サトシさん

2位(95点)の評価

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愛の武将

上杉家に仕えた天才武将

山本勘助⚔さん

1位(100点)の評価

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8毛利元就

70.9(136人が評価)
毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。(引用元: Wikipedia)

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統率力に長けた軍師

知略と統率力に長けた軍師。戦では数々勝利していると思いますが、特に厳島の戦いで村上水軍と結束し大内氏を破ったエピソードは印象的。人望や統率力に長けた軍師なのだろうなと思います。後に政治家を多数排出する県の礎を築いたという功績も大きい。

smoothie

smoothieさん

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中国の覇者

尼後、大内を圧倒したから、

非常口/ラル族さん

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まさに西国最強!!!

信長が桶狭間の戦いをしていた頃、すでに中国地方をほぼ統一していたすごすぎ

りゅさん

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9武田信玄

70.6(149人が評価)
武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 (引用元: Wikipedia)

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やっぱ天才!

他国の情報もちゃんと間者に調べさせて、戦に備えていた。例えば、諏訪氏を攻め滅ぼす時も策略で相手を油断させ、その隙をついて、滅ぼしたから

武田信玄大好きさん

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超強い戦国武将

最強の武将もうちょっと上位でも良いのでは…

山本勘助⚔さん

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優しい強い

家臣に優しく戦国最強と呼ばれているから

にゃんこさん

1位(100点)の評価

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10上杉謙信

70.3(125人が評価)
上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。 (引用元: Wikipedia)

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毘沙門天の生まれ変わり

自らを毘沙門天の生まれ変わりと言った
武田信玄と5回も戦ったことで永遠のライバルと言われている。
信玄たちが塩がなくて困っているときに塩を送ってあげたというエピソードも…
自分の中では川中島の戦いが印象的です。

山本勘助⚔さん

1位(100点)の評価

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とにかく強いです。

城責めが苦手ではあるけれども、ほぼ、地上戦においては負けなしというところがかっこいい。武田信玄との川中島の戦いで、きつつき作戦を見抜き裏をかいたところは流石。義を追求して戦うさまもカッコいい。

ロンピー

ロンピーさん

1位(100点)の評価

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軍神

畠山・柴田・織田・豊臣・武田に勝った軍神。
川中島の戦いで武田の作戦を見事に見破っている。

ゲスト1さん

2位(98点)の評価

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11真田幸隆

70.2(41人が評価)

武田二十四将の一人

調略によって信玄を助け、信頼を得た武将。裏で活躍しているため、子:真田昌幸や孫:真田幸村より有名ではないが、実は二人よりもっと強い武将である。

家臣の武将がだーいすきさん

4位(88点)の評価

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12大谷吉継

70.1(69人が評価)
大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。(引用元: Wikipedia)

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最強軍師

まず頭が良すぎる。関ヶ原の戦いでも小早川秀秋が裏切ることを予想して石田三成側に着いたところがカッコよすぎる

大谷吉継ファンさん

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友情に優れた武将

西軍が負けることを知ってて石田三成側についたのがかっこよすぎる

大谷吉継愛好家さん

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関ケ原に散った不遇の名将

小早川に打ち取られたのは仕方がない

非常口/ラル族さん

1位(100点)の評価

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13伊達政宗

68.8(120人が評価)
伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。 (引用元: Wikipedia)

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奥州の独眼竜

あの若さで東北地方をほぼ支配したのがすごい。
その後も、天下を取ろうとしていたのがかっこいい(≧∇≦)

真田っちさん

1位(100点)の評価

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14太原雪斎

67.3(83人が評価)

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。 (引用元: Wikipedia)

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太原雪斎が生きて居れば桶狭間もなかったろうに

今川義元の軍師として活躍したのが、この太原雪斎。かの徳川家康も太原雪斎の教育を受けたからこそ、天下人になりえたんだと思います。もし太原雪斎が生きていたら、桶狭間の戦いで今川家が破れる事もなかったろうに。名軍師でした。

きゅうちゃん

きゅうちゃんさん

3位(90点)の評価

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東日本最強

今川家の軍師
今川家を大きく発展させた。
信玄や氏康が手を出せなかった
生きてたら桶狭間での大敗もなかったと言われている。

ゲストさん

1位(100点)の評価

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生きていれば義元は死ななかった

太原雪斎が生きてれば、義元は死ななかったって言われているほど評価されていた軍師。

YUPONの剣力さん

2位(80点)の評価

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15小早川隆景

67.1(110人が評価)
小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 (引用元: Wikipedia)

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毛利三本の矢の一人

毛利元就に毛利隆元、吉川元春と並び三本の矢として毛利家を守るよう教えを受けた一人です。本能寺の変後は、中国大返しの豊臣秀吉を追随することなく、時流を読みその後の秀吉勝利にかけ、豊臣家につく形で毛利家を守ることに成功しています。そして秀吉からの信頼もあり豊臣五大老に名を連ねていました。

柚子

柚子さん

3位(80点)の評価

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16島清興(島左近)

66.4(116人が評価)
島清興(島左近)

島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。実名は勝猛(かつたけ)などの俗称が広まってはいるが、自筆文書においても「清興」の花押を使用しており、正確には清興であると考えられる。(引用元: Wikipedia)

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関ヶ原で奮闘した

軍事に疎い石田三成の軍師として実質的に合戦の指揮を取り最前線で最後まで奮闘した挙句討ち死にした姿は負けたとはいえ軍師らしい。

サトシ

サトシさん

4位(85点)の評価

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17明智光秀

65.3(138人が評価)
明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされる。 (引用元: Wikipedia)

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あの信長の無理難題を全て実現してしまう行動力

明智光秀が信長のもとであれだけ出世した理由は、信長の無理難題を全て完璧に実現してしまった行動力にあります。その行動力とは実際の戦いでの強さとは別のもので、大名同士との調整能力でもあり、また信長をいかに強く見せるかといった演出力にあります。

信長は入京の際に室町幕府15代将軍足利義昭を立てるわけですが、その際も明智光秀の存在がなければ、この計画は実現しなかったともいえます。
その後明智光秀は、近江坂本や丹波国を領有し、丹後、大和、南山城の武将たちの統率を任せられます。これは京都周辺を全て明智光秀に任せたという風に言っても良いような行動[続きを読む]

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん

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強い信念の持ち主

織田信長に仕え天下布武に多大の貢献をし、強い信念に基づいた行動ができた人物

麹

さん

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18北条氏康

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北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。 (引用元: Wikipedia)

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騙し討ちして敵を破った

8万もの上杉憲政勢に嘘の降伏をして翌年に油断しているところを夜襲で襲い、大勝利を収めた。
その凄さは関東で言うなら氏康しか持っていません。

ゲスト1さん

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19豊臣秀長

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豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが) または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 (引用元: Wikipedia)

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天下一の補佐役

豊臣秀長は、秀吉が若き頃から秀吉を支え特に外交面や戦での活躍は目を見張る物がある
例えば豊臣家中のトラブルや外様大名らの揉め事を仲裁している。また、但馬国を単独で攻め
信長公にも注目された。そのご四国攻めの総大将として長宗我部氏を屈伏させている
その他にも様々な活躍をしており、
もし彼が生き残っていたら豊臣政権が存続した
と言われる程人情味溢れる人物です。

カラスさん

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補佐役

秀長は秀吉を支えた弟です
また、まだ木下藤吉郎時代から仕えました。

小一郎さん

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20織田信長

64.0(138人が評価)
織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。(引用元: Wikipedia)

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しゅうちゃん

しゅうちゃんさん

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21

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