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戦国時代の軍師 最強ランキング!歴史上最も優れた智将は?

真田昌幸竹中重治(竹中半兵衛)黒田官兵衛(黒田孝高)山本勘助真田幸村(真田信繁)

このお題は投票により総合ランキングが決定

ランクイン数78
投票参加者数300
投票数1,860

みんなの投票で「戦国時代の軍師最強ランキング」を決定!その智謀と策略で、戦国武将を陰ながら支えた歴代の名軍師たち。型破りの発想で豊臣秀吉の軍師として活躍した「黒田官兵衛」をはじめ、イケメンだったとされる天才軍師「竹中半兵衛」や、「我が眼の如し」と全幅の信頼を寄せられた武田信玄の家臣「真田昌幸」、謎に包まれた伝説の軍師「山本勘助」など、数多くの名軍師が戦国時代に誕生しました。あなたが最も優れていると考える、戦国時代の軍師(智将)に投票してください。

最終更新日: 2022/01/21

注目のユーザー

ランキングの前に

1分でわかる「軍師」

軍師は家臣のエリート

策略を練り主君を勝利に導く存在が「軍師」。家臣のなかでも特に優秀な人物が、軍師として登用されたとのことで、軍師という役職があるわけではありません。そのため知略の優れた家臣のことを、軍師と呼ぶこともあれば、智将と呼ぶこともあります。

戦国時代を生きた歴代の名軍師たち

常人には思いつきもしない策謀でピンチを脱し、主君に勝利を捧げた名軍師たち。戦国時代きっての天才軍師「黒田官兵衛」は、2014年に放送された大河ドラマ『軍師官兵衛』で、一躍注目を集めました。また、「竹中半兵衛」は1日で城を乗っ取ってしまうほどの策士でしたが、病に倒れ36歳の若さでこの世を去ったというエピソードがあります。ほかにも、2016年放送の大河ドラマ『真田丸』で一躍人気者になった「真田昌幸」や、武田軍のピンチを救った名軍師「山本勘助」など、歴史に名を残す策士は数多く存在します。

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このランキングの投票ルール

このランキングでは、「日本の戦国時代に活躍した軍師(智将)」に投票できます。歴史上のエピソードや、逸話などの要素から、あなたが最も優れていると考える軍師に投票してください。ちなみに、前述の通り軍師という役職は存在しないと言われているので、智謀に優れている戦国武将も投票OKとします。

ランキングの順位について

ランキングの順位は、ユーザーの投票によって決まります。「4つのボタン」または「ランキングを作成・編集する」から、投票対象のアイテムに1〜100の点数をつけることで、ランキング結果に影響を与える投票を行うことができます。

順位の決まり方・不正投票について

ランキング結果

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1黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。 (引用元: Wikipedia)

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戦国の世において人を殺すことをよしと思わなかった心優しき軍師

黒田官兵衛は出身が姫路ということもあり、非常に荒々しい郡市をイメージするかもしれません。ただ母方が京都の公家で和歌の教養が非常にあったこともあり、彼自身の和歌も非常に繊細で一見して戦国武将ではないのではと思わせるようなものが多いです。

また戦いにおいても出来る限り相手を殺さない戦略をとっています。
第2位の明智光秀のところで言ったように戦において逆転劇をすることが優れた軍師ではないと考えます。むしろ戦をする前にすでに勝敗が決しているような状態に持っていくことこそ有能な軍師と言えます。

このことは黒田官兵衛がキリシタン大名であったと[続きを読む]

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん

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野心家

軍師として優秀ですが、秘めた野心は大きく、関ケ原の戦いのときに黙々と九州を征圧していたのは凄いです。この時代にあって情報の重要さを理解していたのも凄いです。軍師というよりも既に戦国武将に位置づけられるかもしれません。半兵衛と比べ、人間的なミス(荒木村重からの幽閉、三成との不和、秀吉から警戒される、など)が多いような気がします。

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時世を読む軍師

豊臣秀吉に恐れられる人物として徳川家康と並び名指しされた人物の一人です。秀吉に支えながらもその実力を知らしめ、信長のが討たれた本能寺の変後、誰よりも早く秀吉が明智光秀を討てたのは、黒田官兵衛あってこそとも言われています。秀吉亡き後は、関ヶ原で徳川側東軍につくという時流を読む力が素晴らしい人物だったとも思われます。

柚子

柚子さん

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2竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。 (引用元: Wikipedia)

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天下人になれるだけの実力がありながら生涯一軍師に徹した英哲

軍師という立場に飽き足らず、軍師から戦国大名ひいては天下人を目指す人も多いです。豊臣秀吉はまさしく軍師から天下人になった人ですし、かの明智光秀も、確かに本能寺の変を起こした本当の理由については歴史の謎に包まれていますが、やはり軍師の次のステップを目指したのではないかと考えられます。
しかし、この竹中半兵衛は生涯一軍師を貫きました。

主君である斎藤龍興を戒めるため、難攻不落と言われた稲葉山城をわずかな手勢で、しかもたった一日で陥落させました。しかもこれを二十歳そこそこの若さでやってしまうのです。さらにすごいのはその陥落させた稲葉山城を[続きを読む]

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん

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最高の軍師

秀吉の両兵衛のうち黒田官兵衛の方が派手に見えますが、竹中半兵衛こそ軍師の立場をわきまえた最高の軍師だと思います。タイプの違う官兵衛を育てたのではないかとも考えられます。秀吉の力を10から50にアップさせたのが官兵衛とすれば、官兵衛は1から10にアップ(10倍)させた軍師では。

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信長が欲しがった若き才能

黒田官兵衛と並び、豊臣秀吉に仕えニ兵衛と呼ばれ、その才覚を知らしめていたた人物です。元々は斎藤家に仕えており、初陣では大将代理として急な籠城戦を行うなど、初陣で才覚を表していました。長篠の戦いでは、武田軍の陽動作戦を見事に見破るなどの逸話も残るほどの人物です。若くして病気で亡くなっていると言われていますが、最後まで陣中にある事を望むような人物だったとも言われています。

柚子

柚子さん

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3山本勘助

山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 (引用元: Wikipedia)

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武田軍を引っ張る 山本勘助

山本勘助は戦国時代、今川氏の元へゆき、家臣になりたいと頼んだが、今川氏は片目が見えないことと、手足が不自由だったことから役に立たないと判断し、追い出してしまったのだ…
しかし、武田氏が山本勘助を自ら家臣にして、大成功したのだ。

山本勘助は兵士達を指揮し、武田軍を、何度も勝利に導いた。だが…川中島の戦い(第四次)の上杉謙信からの攻撃が大きく、武田軍が負けそうになった。そこで武田信繁と山本勘助は必死に戦って、引き分けにまで、導いた。激しい攻撃を何度も受けていた信繁と勘助は戦死した。

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武田家に勘助あり

川中島の合戦で亡くなってしまいましたが、これは正直相手が悪すぎた。さすが軍神・上杉謙信です。まあラストは仕方ないとして、それまでの武田家を支えてきたのは間違いなく山本勘助でしょう。軍師としてだけでなく情報力もハンパなかったですし。もし川中島の合戦を生き延びていたら武田家滅亡もなかったのでは?と思います。

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遅咲きの放浪軍師

武田信玄に仕えていた事が有名な軍師ですが、それまでは今川に仕えようとし、その醜い見た目から叶わず、50歳頃まで放浪していたとも言われる謎の多い人物です。しかし、まだ甲斐を治めたばかりの武田にとっては、山本勘助を雇うことが武田家の起爆剤になったと言われるほどの実力があったそうです。

柚子

柚子さん

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4真田昌幸

真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある (引用元: Wikipedia)

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彼が戦の決め手!

強さは周りを自分の方に常に味方につけさせるだけの魅力があるところがポイント。危険な武将ではありますが、周りが従いたくなる、認めざるを得ない強さをもっているので1人よがりでない強さが彼の強みの1つ。

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5真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。(引用元: Wikipedia)

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忠義心溢れる天才

大阪冬の陣・夏の陣での徳川軍との戦における策略がすごい。城へのたった一つの出入り口に出丸を築き、敵の侵入を拒む作戦等には敵方も随分苦戦を強いられただろうなと思う。結果的に負けてしまいましたが、忠義心溢れる素晴らしい軍師。

smoothie

smoothieさん

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圧倒的

大阪夏の陣にて、圧倒的不利な状況で敵の本陣までたどり着く、圧倒的強さ!

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天才!!!【親子そろって】

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小十郎さん

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6直江兼続

直江兼続

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。直江兼続(樋口与六)はお船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えた。 (引用元: Wikipedia)

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関ケ原の合戦のシナリオを描いた

上杉家の軍師として徳川家を倒すために石田三成と結んで天下を二分して戦うという関ケ原の合戦の壮大なシナリオを描いたのが画期的。

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7明智光秀

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされる。 (引用元: Wikipedia)

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あの信長の無理難題を全て実現してしまう行動力

明智光秀が信長のもとであれだけ出世した理由は、信長の無理難題を全て完璧に実現してしまった行動力にあります。その行動力とは実際の戦いでの強さとは別のもので、大名同士との調整能力でもあり、また信長をいかに強く見せるかといった演出力にあります。

信長は入京の際に室町幕府15代将軍足利義昭を立てるわけですが、その際も明智光秀の存在がなければ、この計画は実現しなかったともいえます。
その後明智光秀は、近江坂本や丹波国を領有し、丹後、大和、南山城の武将たちの統率を任せられます。これは京都周辺を全て明智光秀に任せたという風に言っても良いような行動[続きを読む]

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん

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強い信念の持ち主

織田信長に仕え天下布武に多大の貢献をし、強い信念に基づいた行動ができた人物

麹

さん

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8片倉景綱

片倉景綱

片倉 景綱(かたくら かげつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達家の家臣。伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称小十郎(こじゅうろう)は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。兜は、神符八日月前立筋兜。 (引用元: Wikipedia)

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地元の英雄

私が宮城県出身なので、やはり伊達政宗に仕えた片倉小十郎はとても好きです。伊達政宗が戦国時代にあそこまで出世できたのも、片倉小十郎の支えがあってこそだと思います。

水菜

水菜さん

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9織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。(引用元: Wikipedia)

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センスの塊

非情だが、桶狭間の戦いで見せた、類まれな戦センス。

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10上杉謙信

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。 (引用元: Wikipedia)

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とにかく強いです。

城責めが苦手ではあるけれども、ほぼ、地上戦においては負けなしというところがかっこいい。武田信玄との川中島の戦いで、きつつき作戦を見抜き裏をかいたところは流石。義を追求して戦うさまもカッコいい。

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11石田三成

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。 (引用元: Wikipedia)

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最強のナンバー2

石田三成は若さゆえの滅びだと思います。戦術、外交、統治能力、教養のどれもがハイレベルな武将です。また、義にも熱く信頼のおける人物です。まさにナンバー2に相応しい武将です。後10年生きたらと思うと残念で仕方がない人物です。

槇村

槇村さん

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12島清興(島左近)

島清興(島左近)

島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。実名は勝猛(かつたけ)などの俗称が広まってはいるが、自筆文書においても「清興」の花押を使用しており、正確には清興であると考えられる。(引用元: Wikipedia)

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関ヶ原で奮闘した

軍事に疎い石田三成の軍師として実質的に合戦の指揮を取り最前線で最後まで奮闘した挙句討ち死にした姿は負けたとはいえ軍師らしい。

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13毛利元就

毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。(引用元: Wikipedia)

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統率力に長けた軍師

知略と統率力に長けた軍師。戦では数々勝利していると思いますが、特に厳島の戦いで村上水軍と結束し大内氏を破ったエピソードは印象的。人望や統率力に長けた軍師なのだろうなと思います。後に政治家を多数排出する県の礎を築いたという功績も大きい。

smoothie

smoothieさん

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14小早川隆景

小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 (引用元: Wikipedia)

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毛利三本の矢の一人

毛利元就に毛利隆元、吉川元春と並び三本の矢として毛利家を守るよう教えを受けた一人です。本能寺の変後は、中国大返しの豊臣秀吉を追随することなく、時流を読みその後の秀吉勝利にかけ、豊臣家につく形で毛利家を守ることに成功しています。そして秀吉からの信頼もあり豊臣五大老に名を連ねていました。

柚子

柚子さん

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15武田信玄

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 (引用元: Wikipedia)

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16伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。 (引用元: Wikipedia)

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17豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。(引用元: Wikipedia)

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下僕からの身

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を罠にはめた智将
(中国大返しもすごかった)

戦国時代にいるさん

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18太原雪斎

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。 (引用元: Wikipedia)

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太原雪斎が生きて居れば桶狭間もなかったろうに

今川義元の軍師として活躍したのが、この太原雪斎。かの徳川家康も太原雪斎の教育を受けたからこそ、天下人になりえたんだと思います。もし太原雪斎が生きていたら、桶狭間の戦いで今川家が破れる事もなかったろうに。名軍師でした。

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19本多正信

本多正信

本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 徳川家康が抱える鷹匠から身を興したが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。一時松永久秀に仕えた後に数年から10年以上の間を流浪の身として送る。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、次いで2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。 (引用元: Wikipedia)

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家康と対等に渡り合った

家臣との上下関係を重んじた徳川家康が唯一、友として台頭に戦略を語り合うほど信頼を得ていた優秀な軍師だった。

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20鍋島直茂

鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。(引用元: Wikipedia)

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葉隠の精神

龍造寺の家を守りつつ自分の家も栄させ秀吉や家康から一目置かれる立場になった先見性はすごいと思う

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21

21位~40位を見る

運営からひとこと

戦国時代に数々の伝説を残した最強の軍師が集う「戦国時代の軍師 最強ランキング」。ほかにも「時代劇映画人気ランキング」や「戦国漫画人気ランキング」など、歴史や戦国大名が好きな人におすすめのランキングを公開中。ぜひCHECKしてください!

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