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登山家レビュアー 馬謖さんの「三国志の武将最強ランキング」

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更新日: 2025/05/07

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ランキング結果

1曹操

曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将・政治家。詩人・兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。 羅貫中の小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定される。

傑物

政・文・軍を全てこなしてしまった人妻好き
虎豹騎組織や烏桓戦で培った軽装騎兵を用いた渭水戦、さらには軍屯・民屯を行い、兵糧をも確保、他の部隊への指示も的確、荀攸・郭嘉らの意見も採決し、先延ばしをしない
そら涼州閥も優柔不断な袁紹も勝てんよ

2諸葛亮孔明

諸葛亮孔明

諸葛 亮(しょかつ りょう、拼音: Zhūgě Liàng ジューガー リァン、181年 - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。字は孔明(こうめい)。 司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として叔父の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。

誠に申し訳ございません

丞相閣下に頭は上がりませぬ
この馬幼常 本意では丞相こそ1位でございまする

3孫策

孫策

孫 策(そん さく、175年 – 200年5月5日)は、中国後漢末期の武将。字は伯符(はくふ)。揚州呉郡富春県の人。 若くして父の孫堅を亡くし、19歳のとき、袁術の将軍となった。袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を編成し、劉繇を倒して勢力を拡大。その後、袁術の元から独立し大きく躍進するが、建安5年(200年)に刺客に襲撃された際に負った傷が原因で26歳で死亡。後継を孫権に定めた。後に孫権によって長沙桓王と諡された。

孫家二世 期待の星

虎の子はやはり小覇王
武闘派連中じみていた孫権グループに北からやってきた二張・魯粛らを抜擢
江東一帯を平定、袁術から独立
しょぼ豪族だった孫家がここまで躍進できたのは紛れもなく彼の統率力にあると思ゆ
ただ孫策がダメだったのは私怨による陸氏への攻撃
これは揚州豪族と孫家グループにでかーい軋轢を生んじゃったし、結局そのせいもあって4んだしね
ケツ拭き係の治世前半孫権はそれをこなしていくのがポイント高い(晩年はね…)

4周瑜

周瑜

周 瑜(しゅう ゆ、拼音: Zhōu Yú チョウ ユ、175年 - 210年)は、中国後漢末期の武将。字は公瑾(こうきん)。渾名は周郎。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人。高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は周循・周胤・周妃。妻は小喬。

軍事的構想が理想じみたか、、

廬江のボンボン家系
それでも揚州の豪族連中と孫家を繋ぎとめた
舌戦では諸葛亮に軍配が上がったが、その若くしての死が惜しい

5曹仁

曹仁

曹 仁(そう じん、建寧元年(168年) - 黄初4年3月19日(223年5月6日))は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は子孝(しこう)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。祖父は曹褒、父は曹熾(字は元盛、侍中・長水校尉)。 従兄は曹操。弟は曹純。子は曹泰・曹楷・曹範ら。孫は曹初(曹泰の子)。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。

攻守に徹す

南郡・樊城戦での防御が著名的だが、実は攻めも強し

6張遼

張遼

張 遼(ちょう りょう、165年/169年 - 222年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は文遠(ぶんえん)。并州雁門郡馬邑県(現在の山西省朔州市朔城区)の出身。前漢の聶壱(じょういつ)の子孫に当たるという。兄は張汎。子は張虎。孫は張統。『三国志』魏志「張楽于張徐伝」に伝がある。 後漢末の動乱期に丁原・董卓・呂布に仕えた後、曹操の配下となり軍指揮官として活躍した。

遼来遼来

他部隊の指揮権を持つことが出来たのは、多くが夏侯惇や曹仁、曹洪とか親族たちが多い中で、曹操下で数少ない外部からの将軍として指揮権を持っていたマン
⇒曹操からの信任
その働きも袁家討伐戦、対烏桓戦、合肥戦にあらわれている武の誉れ
その威は、病中であろうとも孫権を常に恐れさせた
剛はまさに彼の諡号に相応しい

6陸遜

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ファイアー( ゚Д゚)つヽ -=二))🔥

夷陵戦での活躍は👏
新参者感はあったけど揚州の大豪族の出だったから、やるねぇ 晩年の孫権の相手は大変だったでしょうな 苦労人な彼は周瑜よりは下かな

7呂布

呂布

呂 布(りょ ふ、? - 建安3年12月24日癸酉〔199年2月7日〕)は、中国後漢末期の武将・群雄。字は奉先。并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)の人。『三国志』巻七 呂布伝、『後漢書』列伝六十五 呂布伝などに記録がある。 丁原・董卓に仕え、抜群の軍事力を誇った。董卓との亀裂から彼を殺した後天下を失い、放浪するも最期は曹操との戦いに敗れ、殺された。

FORTH

武の境地に達した豪傑
でもグループの輪を見出しがち感あり
だから主君もコロコロ変わるわ、反旗翻しまくるわ
故に勢力が安定しなかった 英雄ではなく豪傑が相応でしょうな

8夏候惇

夏候惇

夏侯 惇(かこう とん、? - 延康元年4月25日(220年6月13日))は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。字は元譲(げんじょう、拼音: Yuánràng)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。吉川英治の三国志や横山光輝の三国志などの作品では「かこうじゅん」と江戸時代の慣例に従った読みになっている。

股肱の臣

曹操グループにおける忠義の塊、右腕的な
ひたすら彼を支え続けたね
子供は影うっすいのと若い時はしれっと盗賊に捕まってるのが(´・∀・` )アラマァって感じ

9関羽

関羽

関 羽(かん う、拼音: Guān Yǔ グァン ユー、? - 建安24年12月(220年1月))は、中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。

義の人と言えば関羽
道教ではそんな彼を財産の神と崇めるほど三国でも特に本土、台湾、その他アジアで人気
欠点は自分を上げすぎて、同僚を軽視したこと(黄忠とか士仁、糜芳とか)
⇒そのせいで荊州が奪われることに…

10趙雲

趙雲

趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、? - 229年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は子龍(しりゅう)。冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯。子は趙統・趙広。父と兄の名は不詳。

忠義マン

単騎がけ多いね 爺さんになるまでおくににつくして

10張飛

張飛

張 飛(ちょう ひ、拼音: Zhāng Fēi ヂャン フェイ、生年不詳 - 章武元年(221年)6月)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。字は益徳。幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯、のち西郷侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵。 後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは下述の通り中原に轟いた。その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。

どんな顔してたんかな

関羽とは正反対に同僚を軽視はしなかった(逆に劉巴に兵隊ごときと話したくないって言われたけど…)
𝑯𝒐𝒘𝒆𝒗𝒆𝒓 代わりに部下をビシバシやりすぎたね
⇒結局、范疆らによって56されてるし

10許褚

許褚

許 褚(きょ ちょ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の武将。『三国志』魏志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。字は仲康。兄は許定。子は許儀。孫は許綜。

10甘寧

甘寧

甘 寧(かん ねい、生年不詳 - 215年?)は、中国後漢末期の武将。孫権に仕えた。字は興覇(こうは)。益州巴郡臨江県(現在の重慶市忠県)の出身。子は甘瓌・甘述(『晋書』「甘卓伝」)。孫は甘昌(『晋書「甘卓伝」』)。曾孫は甘卓(『晋書』「甘卓伝」)。『三国志』呉志に伝がある。

11孫堅

孫堅

孫 堅(そん けん、拼音: Sūn Jiān スン ジアン、永寿元年(155年)または同2年(156年) - 初平2年(191年)または同3年(192年))は、中国後漢末期の武将。字は文台。揚州呉郡富春県の人物。三国時代の呉を建国した孫権の父。廟号は始祖、諡は武烈皇帝。

パパ

虎軍団の礎を作った
経済面では袁術を頼らざるを得なかったが

12馬超

馬超

馬 超(ば ちょう、拼音: Mǎ Chāo マ チャオ、熹平5年(176年) - 章武2年(222年))は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。字は孟起(もうき)。諡は威侯。司隷扶風郡茂陵県の人。『三国志』蜀志に伝がある。 後漢の名将馬援の子孫の出身。祖父は馬平(子碩)。父は馬騰。弟は馬休・馬鉄。従弟は馬岱。妻は楊氏・董氏(側室)。子は馬秋・馬承。娘は劉理の妻。 父が羌族との混血であったため(『典略』)、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。関中の独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、曹操に服属していたが、後に韓遂と共に曹操に反乱を起こして敗れた。一族も勢力も失い流浪した末、益州の劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。

錦馬超

羌族からしてみれば、涼州の名族馬家は強い存在だったろうし、涼州の人々からしてみれば反中央政権の顔だったのでしょうな
んで馬騰が中央に近づくにつれ、涼州閥の反感もあっての子の馬超が担がれたんかな 儒より異民族カラーに染まってる感じだから馬騰が殺されようが、どうとも思われなかったのかね
でも曹操を前にして涼州閥の繋がりがもろく敗北

劉備政権で影がうっすいのも、涼州で人気だったからとりあえず厚遇しといて、涼州進出の種としようとしたかっただけで、政権内からしたら誰って思われてたかもね

13姜維

姜維

姜 維(きょう い、建安7年(202年) - 景元5年1月18日(264年3月3日))は、中国三国時代の人物。魏・蜀漢に仕えた。字は伯約。涼州天水郡冀県の出身。父は姜冏。妻は柳氏。子孫に唐の姜恪がいる。

頑張ったマン

諸葛亮没後、本格的な北伐を担ったのが姜維
やる気は満々だったと思う(北方出身っていうのも、政権の中枢を占めた荊益閥の中でコンプレックスだったでしょうね、だから彼らに認めてもらうためにも北伐を推進)
でも費禕が反対したように大規模な兵を起こすほどの財が蜀漢にはなかったから、結局この北伐は失敗の上に蜀漢に打撃を与えちゃって国力低下

頑張りたかったろうが、費禕がもっと長く生きて口うるさく姜維に言えていたら…とは思う

14魏延

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14黄忠

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爺さんとは思えん

横山三国志のあの最期…( ´△`)アァってなる

14劉備

劉備

劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。 黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。 明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する。

チンピラの劉さん

正史をみると意外に強い(演義だとすぐぴーぴー)
さらにその情義により様々な人との繋がりを重んじる

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