みんなのランキング

滑子ノ介さんの「戦国武将・大名ランキング」

11 1
更新日: 2025/06/10

滑子ノ介

ランキング結果をSNSでシェアしよう

Twitterでシェア

ランキング結果

1真田昌幸

真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある

戦国きっての天才

 戦国きっての戦上手で、自軍の3倍の兵力の徳川軍を下した。
子の幸村も徳川軍を苦しめているが、そもそも幸村の兵法は、全て昌幸
から教わったもの、、、、、、やべぇ、、、、、、、、、、。

1太原雪斎

No Image

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。

天才軍師

 今川家をあそこまで大きくしたのは雪斎のおかげ。
家康も雪斎から学びを得ており、雪斎がいなければ太平の世はなかったかもしれない。

2長宗我部元親

長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。

四国統一へ

 最初の勢力はものすごく小さい!
ながらも四国統一へあと一歩というところで秀吉の邪魔され、可哀そう。
おのれ秀吉~~~~~~~~~~

3大谷吉継

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

あつすぎる友情

 病に侵されながらも、関ヶ原で自軍の約20倍の敵を二度も押し返した凄すぎる武将。
 しかも三成との友情もあつい~~~
まあ西軍が負けるのも知ってたし、小早川秀秋を呪い殺しちゃったけどね

4鍋島直茂

鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。

相当優秀な家臣

 龍造寺家を支えた人です。
能力は結構優秀で、豊臣秀吉から肥前国を治めてと頼まれるほどでした。
それに忠誠心もある。

5伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

独眼竜

 激戦の東北であれだけの領土を手にしたのはすごい。

6雑賀孫市

雑賀孫市

鈴木 孫一(すずき まごいち)は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一という名でも知られる。表記ゆれとして「孫市」の名も知られる。

少なくて勝ち、多くて負けた

 信長相手に、何度か勝っています。
信長より自軍の人数のほうが少ないときに勝ち、なぜか信長より自軍の数のほうが多いときに負けました。
               なぁぜなぁぜ?

7今川義元

今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。

意外にすごい

 今川義元は桶狭間で信長に奇襲され、死にましたが、実は結構優秀で、政治や領国経営に優れていたといわれています。

油断し、死に至る

 本当はすごい武将。
しかし九州の半分以上の領土を得たところで、油断し、自軍約4万対
島津・有馬連合軍8千の圧倒的有利な戦いで戦死。

9石田三成

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

頭はいいが、、、

 頭はいいが、加藤清正達ともうちょっと仲良くして、、、
それでも、秀吉が数多くの合戦で勝てたのは三成が陰で頑張っていたから
だとは思う。

このランキングに共感できましたか?

総合ランキングをみる

ライフスタイルの新着記事

おすすめのランキング

あわせて読みたいランキング