真田昌幸の詳細情報
生没年 | 1547年〜1611年 |
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真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある (引用元: Wikipedia)
真田昌幸がランクインしているランキング
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「表裏比興」の者、徳川の宿敵
若い頃には武田信玄より「我が目のごとし」と称賛された武将。優秀な兄二人がいてあとを継げそうになかった昌幸に信玄から別の名を用意してもらったほどである。徳川家康を破ったのは武田信玄のみだが、榊原康政、徳川秀忠、大久保忠世、鳥居元忠という徳川家の家臣を破っている。
家臣の武将がだーいすきさんの評価
軍師では無く籠城戦に特化した小奸雄
武田、織田、豊臣と仕えたが、これといって献策をして功を挙げた逸話は無く、舌先と地の利で巧く立ち回ったまさに小さい小さい奸雄。
第一次上田合戦はともかく、第二次は小競り合いで終わった可能性があるので、一定の評価は出来るも世間的な評価は過大であると思う。
ゲストさんの評価
武力は普通だけど敵をまかすための策を知っている。
徳川秀忠の38000人の軍をたった3500で撃退させ、徳川秀忠軍に多くの死傷者を出させた、武力は普通だけど敵を負かすための策を知っている武将
ゲストさんの評価
江戸幕府2代将軍を圧倒した
昌幸はなんと言っても伏兵・土地・城などを有効に使って4倍もの兵力の強力な三河武士を圧倒的に破り、江戸幕府2代将軍の12倍以上の兵に圧勝した。
関ヶ原でどちらが勝っても真田毛が残れるように真田家を2つに分けたこともとてもすごい。
ゲスト1さんの評価
籠城の天才
徳川軍を2度撃退し、どちらも数倍ある軍勢を倒した。さらに、大坂の陣の時、家康に「真田が入った」という報せを受け、震えながら「親か子か?」と尋ねた。つまり、心から家康は昌幸のことを恐れていたことが伺えます
戦国狂い好きさんの評価
天才的知能
上田城築城!色々奇襲を仕掛けられる仕組みや、ほかの城と連携し、挟み撃ちに追い込み、二万を超える徳川軍に対し、たった三千で勝利したりしました。おびき寄せるという真田戦法の基礎を作った。
歴史マニア(中2)さんの評価
天才
幸村が有名だが実はとても強い。
相手の心理を読み、罠にはめる術中は
一級品。大阪の陣で真田が豊臣側についた際には天下人 家康も昌幸が入ったのか家臣に問い詰めたほど。
鉄砲などもうまく用いて戦う。
ゲストさんの評価
あの徳川家康でさえ恐れた
かの有名な徳川家康でさえ恐れた戦国1の知将。信長や家康、秀吉に仕えて軍師として活躍してたら他の武将も大いに怖かったろう。
本名をさらしたくないスプラとマリカ大好きかのたんさんの評価
農民でも真田昌幸が率いると精鋭になる と信長に言わしめた実力が凄い
織田信長が武田との闘いで、もっともこの真田昌幸。一向一揆の鎮圧の際は真田昌幸がいた為、なかなか制圧出来なかったとまで言われています。また徳川幕府を開いた徳川家相手に二度戦って二度とも勝つという偉業を成し遂げました。もちろん兵力差は相当ある状況で。表裏比興というだけなく、その実力の高さが大好きです。
こーじーさん(男性・50代)
1位(100点)の評価