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瀧津 孝さんの「戦国武将・大名ランキング」

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更新日: 2020/10/13
瀧津 孝

作家・日本史激動期研究家

瀧津 孝

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まえがき

戦国時代を舞台にした小説作品などを書いていると、全国に割拠した武将たちを調べれば調べるほど、彼らはいずれも何かしらの愛嬌があり、魅力的な個性に溢れていることを認識させられます。

「好きな戦国武将は?」と尋ねられれば、枚挙にいとまがありません。そこで今回は、その特筆すべき〝生き様〟にシビレた人物にスポットを当てて絞り込み、上位三名を解説と共に紹介します。

ランキング結果

「情義」のために命を捨てる

天下分け目の関ヶ原の戦いでは、戦場で三名の大名(一万石以上の領主)が討ち死にしました。彼らはいずれも石田三成が実質的な指揮を執る西軍に属し、副将格だった五万石の大谷吉継、一万石の戸田重政、そして決戦の直前に美濃(岐阜県南部)垂水・一万二千石の大名へと累進したばかりの為広です。

三成の盟友だった吉継は、敗北を予想しながらも味方した〝情義の人〟として戦国ファンに人気がありますが、私からすればこの為広こそ、吉継に勝るとも劣らない情義の武将として世間にもっと広く知ってもらいたい人物。
吉継とは古くからの交誼や恩義があり、彼と共に挙兵を思い留まるよう三成の説得に当たったのも為広でした。このことから、為広は腕力だけが達者な武将ではなく、先を見通す政治感覚にも優れた一面を持っていたのでしょう。

しかし、三成の決意は固く、吉継が根負けすると、為広も吉継との誼の深さから西軍に与します。決戦の日、為広が率いる精兵は三百六十人と決して多くありませんが、吉継の前衛隊として奮戦し、西軍優勢な序盤の展開に寄与しました。ところが西軍の有力大名・小早川秀秋の裏切りによって戦況は一変。寡兵の為広隊は小早川の大軍を迎え撃って何度となく撃退し、東軍大将・徳川家康から密かに派遣されていた軍監・奥平貞治に致命傷(後に死亡)を与えるなど目覚ましい活躍を繰り広げます。

しかしその一方で、西軍諸隊は勢いを得た東軍の猛攻を支えられず、次々と崩壊。敗北を悟った為広は吉継に自決の時間を与えるべく、得意の薙刀を振るって敵中に飛び込み、有力な士を次々と倒す鬼神の働きをした末、押し寄せる東軍将兵に包囲されて壮絶な最期を遂げます。
その直前、戦闘のわずかな合間に、為広は討ち取ったばかりの敵将の首に辞世の句を添えて吉継に届けました。「名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば(武士としての名誉のために捨てる命は惜しくない 永遠に生きられないのがこの世なのだから)」。

殺し合いの最中、和歌という知的にして文化的な手法と、首を添え物に代えた戦士らしい演出で別れのメッセージを受け取った吉継は、きっと心打たれたことでしょう。西軍大名の大半は、敗勢が確実になると戦場を次々に逃げ出しましたが、絶望的な状況の中で留まり、武士の意地を見せ、華々しく散った為広の姿を想像する度、私は心が揺さぶられてならないのです。

2高橋紹運

高橋紹運

高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。 紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。

忠義一筋の玉砕戦で主家を助ける

君主に対する絶対的な忠義が家臣の心得とされるようになったのは、儒教が浸透した江戸時代以降のことです。戦国時代、忠義は確かに武士として重要な徳目ではありましたが、頼りにならない主君、正当に評価してくれない主君と見れば、家臣は躊躇なく主従の関係を断ち切り、他家に仕えるのが常でした。

そんな中で、衰亡する主家を見捨てず、抜群の〝忠義の士〟として歴史に名を刻んだのが紹運です。戦国最強とも評される勇将・立花宗茂の実父であり、豊後(大分県)に君臨する大友家の有力な重臣として各地を転戦しました。
一時は九州の大部分を制覇した大友家も、薩摩・大隅(鹿児島県)から勃興した島津家の侵略によって、滅亡寸前に陥ります。絶体絶命のピンチを迎えて大友家が救いを求めたのは、中央で関白に就任し、天下統一を目前にしていた豊臣秀吉。

秀吉は島津攻めを決断しますが、援軍来着までの重要な時間稼ぎのため、敵の大軍に立ち向かったのが紹運です。島津軍の侵攻ルート上にある小さな山城・岩屋城に、たった七百六十三名の兵士と共に籠城し迎撃。
紹運の指揮は見事で、時には自ら薙刀を手に城門を打って出て痛撃を与えるなど、二万以上の軍勢による猛攻に半月以上も耐えただけでなく、敵を五千人近くも死傷させます。

島津軍の受けた損害は、当時の合戦における敗北側の死傷率に匹敵するものでした。武将であれ、足軽であれ、自分の身に危険が及べば迷わず逃げるのが常識の世で、城兵は一人の逃亡者も出さずに戦い続けます。
しかし、いかに頑強な兵士たちとはいえ、戦闘を重ねるごとにその数は減り、とうとうわずかな人数と共に本丸へ追い詰められました。抵抗ももはやこれまでと覚悟した紹運は、島津軍に対して一時停戦を求め、櫓に上がって切腹。残された将兵全員もその後を追い、遂に岩屋城は陥落。

しかし、この玉砕戦によって、島津軍はすぐに戦闘継続できないほどの大打撃を受け、秀吉の援軍到着前に九州全域を制圧するという目論見は潰えます。秀吉による九州征伐で大友家は九死に一生を得ました。
この戦いの後、秀吉は紹運の類い希な忠勇に対し「乱世に咲いた華」と絶賛します。主家、主君のため、忠義を貫いて殉じた紹運と、彼を慕って死戦に身を投じた兵士たちの姿は、〝戦国版忠臣蔵〟と言っても差し支えありません。

3北条早雲

北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

農民に対する「善政」で領土拡張

一位は「情義」、二位は「忠義」の点で突出し、戦場で〝無双〟の活躍をした〝動〟の勇士たちでしたが、三位には反対に〝静〟とは言わないまでも、乱世で自分の欲より民衆の生活を優先させる「善政」によって成功した希有な武将を選びました。

北条早雲は、地頭身分から下克上で国主に成り上がった戦国大名の先駆けであり、足利将軍家の一族である伊豆・堀越公方を滅ぼした梟雄とも評されていますが、彼が簒奪し、拡張した領国での最重要課題は、百姓の生活を安定させることでした。

応仁の乱以来全国に波及した戦乱の長期化は、戦によって農地が荒らされるだけでなく、軍役で働き盛りの農夫が徴収される→収益が減る→領主は年貢率を上げる→過度な負担に耐えかねて百姓が逃亡する→またまた収益が落ちる→年貢率がさらに上がる、という負のサイクルに陥っており、これに伴って治水事業の遅れなども招き、耕地がさらに荒れていきます。

当時の年貢率は、「五公五民(税率五割)」や「六公四民(税率六割)」、厳しい領主の元では「八公二民(税率八割)」というケースも珍しくありません。早雲が流れてきた東国でも状況は同じです。駿河国(静岡県東部)・今川家の家臣となって東端の興国寺城を任された彼の東隣・伊豆国(静岡県伊豆半島)では、堀越公方が圧政を敷き、領民は大いに苦しんでいました。

早雲は「民こそ国の根本」と信じる改革者であり、伊豆に侵攻して領内の年貢率を「四公六民(税率四割)」という異例の低さに抑えます。百姓たちは大喜びし、噂はたちまち国外にも広まって、重税に喘ぐ他国の百姓たちが早雲による統治を臨むようになりました。

伊豆の東、相模国(神奈川県の大部分)でも、地侍や百姓の圧倒的支持を得て国盗りに成功しますが、そもそも戦争が日常茶飯事の状況で、どこの大名も軍備のために巨額の予算を確保しなければなりません。
しかし、年貢を低くすれば、その分収益は減る訳で、早雲は自身だけでなく家中にも贅沢を禁じ、徹底した節約生活を求めるのでした。

彼の死後、子孫は着実に領土を増やし、ついに関東を制圧しますが、領内全域に四公六民の年貢率が適用されました。後に北条氏が滅び、関東が徳川氏の直轄領となってからも、農民の信頼を繋ぎ止め、反抗を防ぐために年貢率が上げられることはなく、全国的にも珍しい低税率地域として幕末に至ります。早雲の目指した〝民のための領国経営〟は、時代を超えて生き続けたのだと言えるでしょう。

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