北条早雲の詳細情報
生没年 | 1432年〜1519年 |
---|
北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。 (引用元: Wikipedia)
北条早雲がランクインしているランキング
コメント・口コミ
全 14 件を表示
最初にして最強の戦国大名
北条早雲は謀略の天才だと言えると思います。茶々丸討伐の際には、敵の兵士に好条件を出して、謀反を起こさせ、茶々丸が孤立したところで圧勝。小田原城奪取の際には、扇谷上杉氏の混乱を見逃さずに、うまく利用しようと画策したのです。まず、大森氏の治める小田原城を奪取するため、大森藤頼に進物を贈り、親しく歓談するように持って行きます。当然、藤頼には早雲を疑う余地はありません。そのため、早雲の「鹿狩り中に鹿が小田原城の裏に行ったので一旦領地に入れさせてほしい」という早雲の話も疑うことはしませんでした。しかし、これは小田原城を奪うための早雲の策略でした。早雲は、小田原城の裏から奇襲を仕掛け、小田原城を奪い取ったのです。しかし、早雲も勢力を伸ばすことが困難になります。対立していた扇谷上杉氏と山内上杉氏が和解したからです。それでも諦めずに勢力を伸ばし、最終的に相模を統一しました。これが出来たのは、やはり早雲の実力が高く、戦強さがあったからでしょう。そんな謀略の天才である早雲ですが、人望も厚く、敵兵でも降伏すれば味方にし、しっかりと領民のことを思いやる政治を行った大名です。また、早雲は家臣や領民からも尊敬され、他の国の農民も「早雲殿の国になればいいのに」と羨んだと言われているため、謀反も少なく、慕われていた武将だと思います。よって、早雲は最強です。
歴史マニア(中2)さんの評価
政治家
日本初の検地を行ったらしいですね。これはすごいことだと思うんですよ。戦も上手です。世渡りもうまいし、農民たちのこともちゃんと考えてる。まさに理想の政治家タイプ。今の日本には、こういう人がほしいんですよ。
イリエーヌちゃんさんの評価
戦上手の民思い
自分の治めためた国で当時では異常と言ってもいいほど軽い四公六民という税をしき、民に慕われた。今川館の戦いや、伊豆討ち入り、
相模侵攻戦など多くの戦でその才能を発揮している。
相模の獅子さんの評価
農民に対する「善政」で領土拡張
一位は「情義」、二位は「忠義」の点で突出し、戦場で〝無双〟の活躍をした〝動〟の勇士たちでしたが、三位には反対に〝静〟とは言わないまでも、乱世で自分の欲より民衆の生活を優先させる「善政」によって成功した希有な武将を選びました。
北条早雲は、地頭身分から下克上で国主に成り上がった戦国大名の先駆けであり、足利将軍家の一族である伊豆・堀越公方を滅ぼした梟雄とも評されていますが、彼が簒奪し、拡張した領国での最重要課題は、百姓の生活を安定させることでした。
応仁の乱以来全国に波及した戦乱の長期化は、戦によって農地が荒らされるだけでなく、軍役で働き盛りの農夫が徴収される→収益が減る→領主は年貢率を上げる→過度な負担に耐えかねて百姓が逃亡する→またまた収益が落ちる→年貢率がさらに上がる、という負のサイクルに陥っており、これに伴って治水事業の遅れなども招き、耕地がさらに荒れていきます。
当時の年貢率は、「五公五民(税率五割)」や「六公四民(税率六割)」、厳しい領主の元では「八公二民(税率八割)」というケースも珍しくありません。早雲が流れてきた東国でも状況は同じです。駿河国(静岡県東部)・今川家の家臣となって東端の興国寺城を任された彼の東隣・伊豆国(静岡県伊豆半島)では、堀越公方が圧政を敷き、領民は大いに苦しんでいました。
早雲は「民こそ国の根本」と信じる改革者であり、伊豆に侵攻して領内の年貢率を「四公六民(税率四割)」という異例の低さに抑えます。百姓たちは大喜びし、噂はたちまち国外にも広まって、重税に喘ぐ他国の百姓たちが早雲による統治を臨むようになりました。
伊豆の東、相模国(神奈川県の大部分)でも、地侍や百姓の圧倒的支持を得て国盗りに成功しますが、そもそも戦争が日常茶飯事の状況で、どこの大名も軍備のために巨額の予算を確保しなければなりません。
しかし、年貢を低くすれば、その分収益は減る訳で、早雲は自身だけでなく家中にも贅沢を禁じ、徹底した節約生活を求めるのでした。
彼の死後、子孫は着実に領土を増やし、ついに関東を制圧しますが、領内全域に四公六民の年貢率が適用されました。後に北条氏が滅び、関東が徳川氏の直轄領となってからも、農民の信頼を繋ぎ止め、反抗を防ぐために年貢率が上げられることはなく、全国的にも珍しい低税率地域として幕末に至ります。早雲の目指した〝民のための領国経営〟は、時代を超えて生き続けたのだと言えるでしょう。
作家・日本史激動期研究家
瀧津 孝さん (男性・60代以上)
3位(70点)の評価