高橋紹運の詳細情報
生没年 | 1548年〜1586年 |
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高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。 紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。 (引用元: Wikipedia)
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まさに忠義の鏡と言われるラストサムライ
子の立花宗茂の方が有名かもしれません。立花宗茂も非常に魅力的な武将でありますが私は高橋紹運を推します。大友家の重臣としての役割を全うし、最後はわずか700名の兵で2万を超える島津の大群に挑んで壮絶な死を迎えます。
最後まで降伏することなく玉粋するわけですが、島津軍はこの戦いで3000もの兵を失い大きなダメージを受けます。また島津軍の中にも彼の死を惜しむものは多く、自らの信じる道を突き進み、そして散っていった武将です。戦国武将の中には後の武士道とは真逆の人物も多い中、まさしくラストサムライにふさわしい人物であると考えます。
また婚約者が疱瘡にかかって顔にあざができてしまった時、 高橋紹運は「私は彼女の心に惚れたのですから」と言って、相手の家が婚約破棄を持ちかけてきたのをきっぱりと断ったというところも男らしくて素敵な人物と言えます。
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忠義一筋の玉砕戦で主家を助ける
君主に対する絶対的な忠義が家臣の心得とされるようになったのは、儒教が浸透した江戸時代以降のことです。戦国時代、忠義は確かに武士として重要な徳目ではありましたが、頼りにならない主君、正当に評価してくれない主君と見れば、家臣は躊躇なく主従の関係を断ち切り、他家に仕えるのが常でした。
そんな中で、衰亡する主家を見捨てず、抜群の〝忠義の士〟として歴史に名を刻んだのが紹運です。戦国最強とも評される勇将・立花宗茂の実父であり、豊後(大分県)に君臨する大友家の有力な重臣として各地を転戦しました。
一時は九州の大部分を制覇した大友家も、薩摩・大隅(鹿児島県)から勃興した島津家の侵略によって、滅亡寸前に陥ります。絶体絶命のピンチを迎えて大友家が救いを求めたのは、中央で関白に就任し、天下統一を目前にしていた豊臣秀吉。
秀吉は島津攻めを決断しますが、援軍来着までの重要な時間稼ぎのため、敵の大軍に立ち向かったのが紹運です。島津軍の侵攻ルート上にある小さな山城・岩屋城に、たった七百六十三名の兵士と共に籠城し迎撃。
紹運の指揮は見事で、時には自ら薙刀を手に城門を打って出て痛撃を与えるなど、二万以上の軍勢による猛攻に半月以上も耐えただけでなく、敵を五千人近くも死傷させます。
島津軍の受けた損害は、当時の合戦における敗北側の死傷率に匹敵するものでした。武将であれ、足軽であれ、自分の身に危険が及べば迷わず逃げるのが常識の世で、城兵は一人の逃亡者も出さずに戦い続けます。
しかし、いかに頑強な兵士たちとはいえ、戦闘を重ねるごとにその数は減り、とうとうわずかな人数と共に本丸へ追い詰められました。抵抗ももはやこれまでと覚悟した紹運は、島津軍に対して一時停戦を求め、櫓に上がって切腹。残された将兵全員もその後を追い、遂に岩屋城は陥落。
しかし、この玉砕戦によって、島津軍はすぐに戦闘継続できないほどの大打撃を受け、秀吉の援軍到着前に九州全域を制圧するという目論見は潰えます。秀吉による九州征伐で大友家は九死に一生を得ました。
この戦いの後、秀吉は紹運の類い希な忠勇に対し「乱世に咲いた華」と絶賛します。主家、主君のため、忠義を貫いて殉じた紹運と、彼を慕って死戦に身を投じた兵士たちの姿は、〝戦国版忠臣蔵〟と言っても差し支えありません。
作家・日本史激動期研究家
瀧津 孝さん (男性・60代以上)
2位(85点)の評価