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ゲスト1さんの「戦国武将最強ランキング」

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更新日: 2022/08/15

ゲスト1

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ランキング結果

1本多忠勝

本多忠勝

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

徳川の家臣最強

忠勝は57度の合戦で一度も傷をおわなかったという事実がある徳川の豪傑。三河一向一揆・三方ヶ原・長久手・関ヶ原などの合戦で数々の手柄を残している。

2北条早雲

北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

最初の戦国大名

見事な策略で小田原城を奪い伊豆から南関東えと勢力を広げた。

3大谷吉継

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

真面目に戦った

吉継は関ヶ原の時、三成の誘いによって西軍についても真面目に戦い、もし家康側についていたら70万石ぐらいいい褒美があるだろう。

4太原雪斎

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太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。

5豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。

有力家臣がいないと何もできない

墨俣一夜城・中国攻め・天下統一などの秀吉の活躍だとされていることは実はほぼ全てが黒田・竹中・加藤・福島・蜂須賀などの強い家臣がいなければ成り立たないことであった。秀吉だけでは、天下など夢の夢の夢の夢であっただろう。

5織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

有力家臣がいないとどんなことになっていただろう

姉川の戦いの時は家康がいないと浅井軍に完敗していたし、金ヶ崎の戦いだって浅井長政との同盟の約束を破るなどの自爆行為をさせた。
さらには裏切り者多すぎだし裏切り者の城を兵糧攻めにしている時に新たな裏切り者から新しい補給路をつくられちゃった。相当ダサい。

7石田三成

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

関ヶ原でボロ負けた奴

家康に戦うと負けることはわかっていて、親友の吉継に止められても戦い、ボロ負けて処刑された。また家康の誘いによって西軍の武将が続々に裏切ったのも、三成が弱い・家臣の扱いが下手などの理由が考えられる。

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