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戦国時代は俺のソウルさんの「歴史上の人物ランキング」

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更新日: 2022/11/04

戦国時代は俺のソウル

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ランキング結果

1武田信玄

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。

〜天才戦略家〜

軍師の山本勘助は八陣を考案。(ちなみに考案者は諸葛孔明)
これを用いて家康の鶴翼の陣を(八人のうちの一つ)を魚鱗の陣で破った。
(こちらも八陣のうちの一つ)
キツツキ戦法を用いたり上記の三方ケ原の戦いでも頭脳を使ったりと
素晴らしい人物。
甲斐の村が塩不足に陥った時に上杉から塩を送られ、ライバルとの
関係も良かったよう。毘沙門天を兜に入れていたとも言われている。
信玄堤を村のために作ったりと何もかも凄すぎる。

2織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

凄まじい頭脳プレイ

彼は斎藤道三の弟、斎藤龍興を倒して尾張や三河(現愛知県)を自力で支配
金ヶ崎の戦いで裏切った浅井長政を姉川の戦いで13段の陣で挑み、負けかけるも徳川の榊原康政に助けられた。ある時は約3000丁の南蛮銃で巧みに戦い、ある時は織田水軍九鬼義隆に鉄鋼船を作らせたりと上記にもある『頭脳プレイ』がとにかく目立つ。
本能寺の変では「是非に及ばず」(戦うのみだ)と言い放って森蘭丸などとともに燃え盛る本能寺で散った。その時も女性を全員逃したという。

3伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

独眼竜の紳士

彼は幼少期天然痘にかかる。当時は現在のような高度な医療はなく
ひたすら神頼みであった。奇跡的に一命を取り留めるものの片目を失う。
家督を継いでからすぐに悲劇は起きる。
父が倒した畠山義継(二本松義継)に父の輝宗が拉致され、輝宗は「撃て」
と叫んだ。政宗は迷ったものの畠山と自分の父を撃った。
片倉小十郎(片倉景綱)を家臣に秀吉や家康を度々裏切るもその度に死装束
(切腹などの時に着るもの)をきたり重い十字架を背負い謝罪。
(この件に関しては父が殺されたトラウマの可能性がある)
その後は乱戦の覇者である家康に息子に政治を教えてやれと言われ、
なんと徳川家光の代まで政治に関わる。長寿でもあり素晴らしい人物。

4石田三成

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

知略軍師

水責めもろくに決められず活躍出来ないとされていた彼。
小早川秀秋に裏切られるまで関ヶ原の戦いを優先に進められていたのが素晴らしいところ。

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