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Twitterでシェアランキング結果
1位徳川家康
2位織田信長
柔軟な発想を持った知将!
信長といえば、比叡山延暦寺の焼き討ちや冷酷なイメージがあるが、実際は町人が自由に商売ができるような楽市楽座を発案していた。軍事力を持つためには、豊かな経済力が源泉となることを気づいていた。そういう柔軟な発想が好きだ。
3位真田昌幸
真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある
戦の天才!
天下分け目の戦いは小早川の裏切りによるものと見られているが、結果論であり実際は拮抗していた。その理由が、家康の本隊の到着が予定より大幅に遅れたことだった。遅れた理由は真田氏との衝突だった。軍事力では圧倒的に劣っていた真田氏が本隊を苦しめていた。
秀吉に領地の配置転換を命じられ江戸に移ったがそこから大都市を作り上げた!
当時の江戸は、湿地帯で洪水も起きやすい土地であり、とても中心になり得る都市ではなかった。そこから家臣と共に長いビジョンで治水工事をし、豊かな土地へ変えた。泣くまでホトトギスの家康らしいエピソードを感じる。