真田幸村(真田信繁)の詳細情報
生没年 | 1567年〜1615年 |
---|
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。(引用元: Wikipedia)
真田幸村(真田信繁)がランクインしているランキング
全 170 件中 1 〜 20 件を表示
家康を追い詰めた武将
関ケ原の戦いで敗れた側の武将ですが、幽閉された場所から抜け出して、西軍につきます。烏合の衆である西軍をまとめ上げた技量は抜きんでており、真田丸という砦を築いて徳川方を大いに苦しめました。そして、真田十勇士という架空の勇者まで生みだしました。
sarurururu78さん(男性・60代以上)
2位(95点)の評価
勇気と忠義の男
真田幸村は、関ケ原の戦いのときに徳川家忠の8000の兵を上田城の
2000の兵で足止めをしました。
大坂冬の陣では真田丸を作って徳川軍を大阪城に入らせないようにしました。 ですが、豊臣 秀頼が、徳川家康の講和条件の「真田丸を壊す」「堀の埋め立て」というのに乗ってしまって、真田幸村が考えた策が壊されました。
そして大坂夏の陣の時は、どんどん散ってった豊臣家臣団の中で、
独り覚悟を決め徳川本陣へと駆け込みました。
それで家康は「もうだめだ」とあきらめるほど追い詰めました。
死んでしまいましたが、勇気と賢さそして忠義のある武将だと言えます。
正直真田幸村が大阪城だけが自分の持ち城で、当主だったら
徳川家康に勝っていたと思います
戦国マニア君さんの評価
家康を追い詰める!
大阪冬夏どちらでも大活躍。冬の陣では、真田丸を築き、相手を挑発しておびき寄せ、堀に落としたところを一気に鉄砲で撃ちまくる!実は大阪冬の陣で、徳川軍にでた犠牲者の8割は、この真田丸によるものなんです!夏の陣では、命知らずの攻撃で、徳川家康をあと一歩まで追い詰めました!結果的には討ち取られたものの、恐ろしい勇気を持っている武将だと思います。
歴史マニア(中2)さんの評価
戦国武将一過大評価されている武将
真田幸村が活躍したのは、大阪夏の陣、冬の陣のみ。
「上田城の合戦は父、昌幸の指揮なのでカウントしない」
並み居る歴戦の武将を差し置いて、このランキングは無い。
冬の陣で徳川家康を追い詰めたと言うが、最初に徳川の陣に突撃したのは毛利勝永で、後から来たほぼ無傷の真田勢が突き崩した。
毛利はその前に多勢を正面から散々に打ち破っての突撃で、真田勢が壊滅した後も、城まで見事撤退している。
つまり局地的に徳川家康を追い詰めたのは真田であるが、戦局的に徳川を追い詰めたのは毛利である。
真田丸さんの評価
戦国最強武将
なんといってもあの徳川家康を大坂夏の陣であと1歩まで追い詰めたので天才の作戦を考えた戦国最強武将と言ってもおかしくはないでしょう。兵の人数で負けたので多ければ必ず勝っていたでしょう。何と言っても勇ましい。もし、勝っていたら豊臣家、真田家が存在していた。日本はどうなっていただろう?。
ゲストさんの評価
猛将というより名将
ゲームなどの影響で武勇に優れた猛将のイメージが強いが、本当はどちらかというと優秀な軍略家だったと思われる。父昌幸の血を受け継ぎ戦国最後の大戦大阪の陣で大活躍した。特に夏の陣での大御所家康を狙う作戦は並の武将では思いつかない方法だ。しかし惜しむべくは余りにも戦闘回数が少ないことで、自らが軍を率いて戦ったのは第二次上田合戦と前述した大阪の陣の二回だけしかない。だからこそ大阪の陣であれほどまでに輝けたのかもしれないが。
さんぽさんの評価
もう少し早く歴史の表に出て来ていたら・・・
幸村の本当の活躍は大阪冬の陣からだと思う。 頭脳明晰な父親、昌幸の陰に隠れていたせいか、なかなか表舞台に登場しない人。 関ヶ原でも徳川方が勝つと分かっていて豊臣方に父親と共に参戦する等、義にも通じている人。 大阪冬の陣でも大阪方は勝てないと分かっていて、それでも戦い、更に夏の陣では、徳川家康の陣にまで攻め込み、家康から「日の本一の強者」言わしめた武将。
ドラ助さんの評価
実質戦国2位の武将
真田幸村は大阪の陣で大活躍をした武将。その活躍によって真田十勇士という物語までできるほどである【真田十勇士は架空の人物である】
しかし、幸村が突撃をした理由とは、幸村自身の問題ではない。
他の武将たちに妨害をされて、幸村の作戦をすべてはね返されてしまったのである。もしも、豊臣秀頼が作戦を理解し、賛成すれば大坂の陣でも勝てたであろう。
また、幸村の意見が通されなかったのは、昌幸の活躍によるものでもある。上田合戦で昌幸が徳川を破ったのは確かだが、城に誘い込み敵を倒していたのは幸村の活躍によってである。
もし昌幸が大阪城に来ていたら・・・という考え方もできる。
幸村を過大評価している、というふうにとらわれているのはこのような理由によってである。
家臣の武将がだーいすきさんの評価
そこまで強くない
夏の陣では最初の徳川に突撃したのは毛利勝永のうえに,真田十勇士による活躍が大きすぎだった。家康を怖がらせたのは信繁ではなく、真田十勇士だったのである。堀埋め作戦に巻き返せる強い作戦が思いつかず、ただ突撃をするだけだったので討ち取られたということで信繁はそこまで強くないと思います。
まあ、真田丸で前田利長などの軍隊を追い詰めたのは確かだからある程度の強さはあると思いますが。
ゲスト家康さんの評価
カッコいい
真田信繁様 「さなだ のぶしげ」がかっこいいから100点を付けました。偉い人だから後何回も言うけれどカッコいいからです。カッコいいとこらは座っている所がカッコいいなぁと思いました。
お手伝いをたくさんしているし勉強もたくさんしっているから私も真田繁信様みたいに1日だけでも変わりたいいぁといつも思っています。今も生きていたらいいのになぁと思ったから100て点を付けました。
穂香さんの評価
日の本一のツワモノ
幼少期の頃は目立ったことはしていないが上杉家で軍略を学び第二次上田合戦では父と共に徳川軍三万七千を撃退している。最後の戦い大阪の陣では真田丸を築き徳川軍を迎撃,伊達の軍を倒したのち最後の突撃を喰らわせ家康をびびらせ数で勝る家康が逃げ出し日の本一の兵と敵から言われた
張遼最強さんの評価
嵐の武将
豊臣秀吉が信繁に100万石を与えて秀頼を守らせたら、豊臣家の運命も変わっていたかもしれない
真田家は一族全員優秀 真田信綱:交渉が得意 真田信幸(信之):信繁の兄、政治が得意で、数々の特産品を生み出している 真田昌幸:信繁の兄で表裏比興と呼ばれた。策士で、少ない兵力で大軍に勝つのが得意
う〜ん、、、一つ思ったこと みんな強強じゃん
祖先武田家家臣だった人さんの評価
正直そんなじゃね?
父(真田昌幸)の名が全国に知れ渡っていたからじゃね?そんなに活躍してる戦なんて少ししかないし、家康を追い詰めたわけでもなくない?倒せてないんだから。強さって言ったって全然戦出てないじゃん。。。だいたい真田十勇士の逸話がほとんどだし。俺は好きじゃない。
YUPONの剣力さんの評価
知略だけでなく武勇も高い!
真田幸村は大坂の陣で大活躍をした武将。
冬の陣の真田丸の戦いでは前田利常、松平忠直、井伊直孝を、
夏の陣の道明寺の戦いでは伊達政宗を、
天王口の戦い(幸村が突撃した戦い)では毛利勝永と協力して、
秋田実季、松平忠直、水野勝成、本多忠朝、榊原直勝、保科正光、
諏訪忠恒、小笠原秀政を破っています。
また、家康を自害寸前まで追い詰めた武勇も高い武将です。
知略では、父:昌幸に似ているところもあります。
最後まで豊臣のために戦う、忠義心も高いすごい武将です。
家臣の武将がだーいすきさんの評価
家康の恐れたもう1人の男
幸村は昌幸と共に関ヶ原の戦いで西軍につき、第二次上田合戦にて徳川秀忠の軍勢を足止めしました。しかし、関ヶ原本戦で西軍は敗北、幸村、昌幸は死罪とされます。徳川一の猛将、本多忠勝と真田信之によって除名されましたが、大阪の陣では家康に対抗すべく、豊臣方に付きました。おかしいと思いませんか?命を助けていただいたのに、何故豊臣についたのか。僕はそれはいくら本多忠勝に除名された深い恩があったとしたも豊臣家に義があり、家康が悪であると言うことを伝えたかったのだと思います。
戦国時代大好き小学生さんの評価
家康を追い詰めた「日の本一の兵」
信長が死んだばかりの頃は人質に駆り出されたりして全然、戦ができなかったっけれども、第2次上田合戦では父昌幸とともに秀忠軍を倒し足止めをしたり、大坂の陣で家康を追い詰める事ができるぐらい戦国時代トップで強かったから。もし信繁(幸村)が長男だったらどうなっていたのかと考えるとワクワクが止まりません。
一番好きな戦国武将さんの評価
作戦が狂った
本来信繁は毛利勝永隊などと連携して一気に家康の懐まで飛び込む!と言う作戦でしたが、毛利隊が早く戦を始めてしまい、やむなく信繁隊も突入したと言う説が濃厚です。また、「真田昌幸」が大坂の陣まで生存していれば、秀頼や豊臣の重臣を動かすことが出来たかもしれないが、「真田信繁」だったから秀頼の出馬を促せなかったと言うのもあるのかもしれない
天王寺口さんの評価
過大評価されている武将
最初の徳川に突撃したのは毛利勝永だったうえに,真田十勇士による活躍が大きすぎだった。家康を怖がらせたのは信繁ではなく、真田十勇士だったのである。 夏の陣では堀埋め作戦に巻き返せる強い作戦が思いつかず、ただ突撃をするだけだったので討ち取られたということで信繁は強くないと思います。
ゲスト15さんの評価
家康を追い詰めた男
大河ドラマの主人公になったことでも話題の人物で、知将と恐れられた昌幸から学んだ戦術と激しい領地争いのなかで培われたハングリー精神を持った人物です。大坂の陣の時には家康は、その才幹を恐れて50万石で召し抱えると申し出て引き抜こうとした逸話がある程です。もちろん当時にそのような余分な土地が余っている筈もなく、空手形に笑って幸村も拒否をしました。いざ戦いが始まると真田丸での攻防や茶臼山の家康本陣へと迫るなど、余裕を見せていた徳川方の肝を冷やす活躍をしました。絶対的な勝者に対して必死にあらがう戦士としてカッコよさがあります。
アールライトさん(男性・40代)
1位(100点)の評価