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上杉謙信に関するランキングとコメント・口コミ

上杉謙信

最高評価

78.7

(2,725人の評価)

戦国武将最強ランキング」で最も高い評価を得ています。

上杉謙信の詳細情報

生没年1530年〜1578年

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。 (引用元: Wikipedia)

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戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

負けない美学を持つ武将

上杉謙信は、武田信玄のように多くの有力な家臣を携えているわけでもありません。また織田信長や豊臣秀吉のように圧倒的な軍事力で相手を圧倒させる武将でもありません。
そう言うとそんなに強い武将ではないのでは?と思うかもしれませんが、私は上杉謙信こそ「人生」という戦場を戦う上で最も強い戦い方をした武将であると考えます。

上杉謙信は、決して無理をしない戦国武将でした、また謙信自信、家臣そして領国が損をしないようにするためにはどうしたらよいかということを第一にあくまでも冷静に分析して判断して行動していく武将であるということが最近のの上杉謙信の書状の研究などから明らかになってきています。

このいかに負けないかということが重要なのです。そのためのリスクコントロールやマインドの管理などを徹底的に行って戦ったという点においては、他の戦国武将に見られない大きな特徴であると言えます。

金谷 俊一郎

歴史コメンテーター

金谷 俊一郎さん (男性)

1位(100点)の評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

敵への思いやり

「敵に塩を贈る」という言葉の由来にもなった、ライバルである武田信玄の軍が塩が尽きてしまい困っているときに、自分の塩を武田軍に贈ったというエピソードが有名です。敵とはいえど、その窮地には手を差し出すという精神がとても尊敬できる人物だと思います。

ゆたかさん

ゆたかさんさん(男性・20代)

5位(70点)の評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

武勇と知

「最強」という基準で考えた際に、人をまとめるトップとしての力と、個人としての武道の力両方が必要だと考えた際に、パッと思いついたのは川中島の戦いの主役である上杉謙信と武田信玄でした。そして上杉謙信を選んだ理由としまして、謙信は自らのことを毘沙門天の生まれ変わりとして信じ、戦を好み、名を馳せたためです。

ケイ

ケイさん(男性・30代)

1位(100点)の評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

天才系戦国武将

戦が圧倒的に強い。そして知恵を絞って戦うのではなく、相手の打つ手を瞬時に見抜いて裏手を取るという天才肌の武将というのがカッコイイですね。私的に印象に残ってるのは、山本勘助が上杉謙信について武田信玄に語った場面です。1~10までの数字を全部足すといくつになるか?という質問に対し、武田信玄はすばやく計算して答えました。でも上杉謙信は即答だったんですよね。ほとんど計算もしていない。何故即答出来たのか?気になる方は上杉謙信について調べてみてくださいね。

こーじー

こーじーさん(男性・50代)

3位(70点)の評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

義理に厚く日本史上で希代の名将

私利私欲を好まず、弱者を救援し本来在るべき秩序をもって正すことを生涯の理念とし、乱世の世に平和をもたらすことに戦った。また青紫蘇、金山で本国を豊かにし、上杉家九代目には鷹山公が最貧藩の米沢藩を救い、アメリカ、ケネディ大統領に最も尊敬する日本人と言わしめたほど名君を輩出するのは、戦国に唱えた上杉謙信公の義の精神が脈々と受け継がれた以外にはない、今の日本人には忘れ去られたもの。あの時代にこのように人として為さなければならないことを成した謙信公は戦国随一の名将です。

バカボンさんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

戦国武将で最も強い武将

上杉謙信は僕にとっては戦国武将で最も強い武将で、織田信長を破り、武田信玄とは第1次川中島の合戦で勝利している。上杉憲政からは関東管領の職を譲ってもらっていることから幕府からの信用性も高く、それから自らの私利私欲にとらわれず、助けを求められたときのみ戦った。やはり上杉謙信は戦国武将の中で最も強い武将と言えるだろう。

上杉謙信大好きさんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

戦国トップクラスに賢く強い武将

上杉謙信はライバルの武田信玄のように有力な家臣をまっていませんでしたが武田信玄と互角に戦えていたことが評価のポイントです。
また戦の勝率も高く、ほとんど負けなしでした。
そしてライバルの武田信玄に塩を送るなどかっこいいいちめんもありました。

最強の神さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

上杉謙信と女性

上杉謙信は生涯不犯を誓い、妻を娶らなかったと言われています。しかし、謙信が全く女性と関わってないわけではないようです。謙信は3人の女性との関係がありました。その3人の女性の1人である伊勢姫について紹介します。
伊勢姫は謙信による関東出兵の際に父によって謙信の元に人質として出されました。しかし謙信は人質の伊勢姫を気に入りそばに置こうと試みますが、重臣柿崎景家に仲を引き裂かれ、謙信は断念したといいます。

上杉謙信大好きさんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

越後の龍

謙信は特に優れた家臣がいるわけではないのに、北条以外にはほぼ負けたことがなく、本当に優秀な武将だと思います。
信長にも引き上げて病に倒れなければ軍を皆殺しできたかのように完全に勝ったのは一人、二人ほどしかいないのに、謙信はその一人です。                                 信玄にも、川中島の戦いの第1次では武勇を発揮して上杉方優勢に持ち込んだし、第4次だって山本勘助の作戦を見破って勘助や信繁などの武将を討ち取って武田軍を追い詰めた。
謙信は冷静に物事を判断したからこそ、ほとんど負けたことはなかったのです。まさに「越後の龍」です。

ゲスト15さんの評価

歴史上の人物ランキングでのコメント・口コミ

上杉謙信すごい

越後の国(現在の新潟県)の守護代長尾為景のの子として生まれる。
信玄と並び、戦国時代を代表する武将の1人。
信玄とは生涯に渡りライバル関係にあった。
自らを戦の神「毘沙門天」の生まれ変わりと称し、「毘」を旗印を掲げ議の心を大事に戦に望んだ人。
上杉謙信の幼名は虎千代。

生存フラグ(せーちゃん)(嘘)さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

最強と言っても過言ではない

はいきました最強!!
上杉vs武田で川中の戦い?で五回戦っても引き分けとなってしまったが、織田信長を追い詰めたが、病気で死んでしまう、、、という結果になってしまった。だが病気で死ななかったら天下を取っていた可能性も!?(毛利とかやばそうだが、、)まあいけるっしょ!え?タイマンで戦ってみたら?ふっふっふ、、、!僕の個性(ヒロアカ)の糸でぶったぎってや
Σ(・□・;)

あるため様!さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

甲相駿三国同盟、三好、松永、織田を圧倒した最強戦国武将

上杉謙信は、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉のように高い軍事力で相手を圧倒するわけではありません。では、どこが強いのか。上杉謙信は、冷静で負けない方法を熟知している戦国武将だと思いました。謙信は、決して無理をしない戦国武将でした。川中島の戦いでも、武田軍を決して深追いしませんでした。これは、領地や家臣たちに利害がないかということを考えた結果だと、史料からのデータが残っているそうです。ちなみに、信玄でさえも、謙信とまともに戦うことを嫌ったそうです。また、第4次川中島合戦では、武田軍の多くの敵将を打ち破り、総大将である信玄をも負傷させたのだから、ほぼ謙信が勝ったと言っても過言ではありません。初陣も見事でした。少数の城兵を二手に分け、一方の隊が敵本隊の背後を奇襲し、城内から本隊を突撃させることで、見事に勝利を収めたのです(栃尾城の戦い)。兄、晴景との戦いでは、晴景軍が小荷駄を連れていないことに注目し、今後の晴景軍の動きを予測。そのまま夜襲で大勝利しました。また、手取川の戦いでは織田軍に夜襲を仕掛けてボコボコにしています。こんな事ができるのは、謙信の冷静さがあってこそだと思います。このことから、上杉謙信は最強だと思います。また、甲相駿三国同盟と戦いながら、やろうと思えば三好、松永を蚊を叩くほどの苦労もなく京から駆逐できるということです。現に、松永は、謙信のご機嫌伺いをしているほどです。さらにやばいのは、北条と戦った時、参戦した関東の武将が北条と戦い続けていれば、そのまま北条を滅ぼし、今川氏真を滅ぼし、挟み撃ちで信玄率いる甲州軍団を滅ぼし、その上で織田信長をも倒し、楽々と天下を取れていたということです。

歴史マニア(中2)さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

まさに軍神。

上杉謙信のとんでもないところ。それはやはり神がかった戦の勝率にある。その勝率、実に97%。かの東の雄、北条氏康ですら拠点となる小田原城に攻め込まれ、戦国最強との呼び声も高い武田信玄とも何度もやり合って引き分けている。また本体でないとはいえど柴田勝家などの織田信長の重臣クラスと戦い(手取川の戦い)圧勝していることも考えるとやはり戦国最強で良いのではないかと思う。

ゲストさんの評価

歴史上の人物ランキングでのコメント・口コミ

戦国最強なだけじゃない

とにかく戦に強いことや、義に厚く他大名に滅ぼされた武将を助けたり武田に塩を禁輸しなかった(敵に塩を送る)エピソードが評価されがちですが、当時の越後の名産だった青苧を京に輸出に資金を稼ぐなど内政上手の側面もあったそうです。
個人的には地元新潟県で最も偉大な偉人と言えるでしょう。

ピエロギさんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

カッコいいしすごい‼️

70戦61勝2敗8分または70戦43勝2敗25分ってすごい・・・・・・・・
あと川中島の戦いはとっても有名‼️
敵に塩を送るとか、優しくてカッコいい❤️
越後の龍、軍神って呼ばれるくらいならきっと戦の天才‼️
でも信長も好き・・・・・・・・(2人敵どうしなのに)謙信と信長といえば『手取川の戦い』。

戦国武将すごい‼️さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

軍神だけど弱いところも

第4次川中島の戦いで、でる煙が多かったことから信玄の作戦を見抜き、信玄の本隊を追い詰めた。軍の数が両軍とも互角だったら信玄は死んでいたかもしれない。武田信繁や山本勘助などの優秀な家臣も倒した。
そして、手取川の戦いでも、秀吉や柴田などの織田の有力武将の大軍にも大勝した。
ただ、北条氏康との戦いについては失敗に終わった。最終的には関東勢を敵に回した。さらに、家臣の領地争いによって謙信が不利になったりと、弱いところもある。

ゲスト家康さんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

上杉謙信は女性?

上杉謙信は女性という説があります。謙信は合戦中に原因不明の腹痛に襲われることがあり、それが生理の一環だったと考えられています。
また、謙信は婦人病を患ったことが死因であった。これが女性特有の現象であることから女性ではないか、という説が導き出された。

SPY✕FAMILYアーニャ推し!さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

武田、北条、織田なと、数々の戦をし、その勝率97%。あまりの強さに「軍神」と言われるようになった

戦の勝率が97%だったと言われています。
本拠地春日山城
越後国山内上杉家16代当主の戦国武将です。
結果は、長尾景虎軍の圧勝。続く第二次川中島の戦いでも、川中島の所領を領主に返すという有利な条件を引き出し、長尾景虎軍が勝利します。

1557年(弘治3年)の第三次川中島の戦いでは、長尾景虎軍は武田領内に深く進軍し、武田軍も決戦を避ける形で守りを固め、膠着状態のまま戦いが終わりました。
1559年(永禄2年)、長尾景虎は2度目の上洛を果たし、「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)や将軍・足利義輝に拝謁。足利義輝から管領並みの待遇を受けたと言われています。

1560年(永禄3年)5月、「桶狭間の戦い」によって「甲相駿三国同盟」の一角が崩れたのをきっかけに、長尾景虎は北条氏康の討伐を決断しました。越後国から関東へ向かう道中、上野国(現在の群馬県)箕輪城主「長野業正」(ながのなりまさ)の支援を受けながら北条方の諸城を次々と攻略。関東に拠点を作り、徐々に北条軍を追い詰めていきます。

そのまま機を伺いながら年を越しますが、その間に北条討伐に向け関東諸将らの協力を仰ぎ、ついに武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県北東部)へ進軍を開始。

武蔵国の各城を配下に治めつつ小田原城を目指し、10万もの軍勢で小田原城を含めた諸城を包囲して、攻撃を開始しました。長尾景虎の猛攻により、北条氏康が籠城を決断するまで追い込むことに成功したのです。

しかし、勝利を目前にした状況で、長期出兵を維持できない軍が無断で陣を引き払い、結果的に戦力は減少。さらに、武田信玄が動きを見せることで、長尾景虎軍は背後への牽制も余儀なくされ、戦況は膠着状態へと一転します。1ヵ月に亘る包囲も実を結ばず、長尾景虎軍は鎌倉へ撤退したのです。
1561年(永禄4年)、長尾景虎は上杉憲政の要請で山内上杉家の家督と関東管領職を相続しました。そして、名前を「上杉政虎」(うえすぎまさとら)へ改名。

同年8月、関東から帰国した上杉政虎は、5回に亘って行なわれた「川中島の戦い」の中で最も有名な「八幡原の戦い」(第四次川中島の戦い)へと臨みます。濃霧が立ち込める中で上杉政虎は「車懸りの陣」(くるまがかりのじん)を展開。「車懸りの陣」とは、自陣の兵を何列も組み、攻撃を仕掛けては離脱し、後ろに控えていた余力ある兵が攻撃を仕掛けるという波状攻撃の一種です。霧が晴れた途端に上杉軍が目の前に現れたため、武田軍は意表を突かれて戦場は一気に混戦を極めました。

そして、この戦いで有名な逸話はもうひとつあります。それは、上杉政虎が馬を駆って敵本陣に乗り込み、武田信玄へ斬りかかる「上杉謙信と武田信玄の一騎打ち」。斬りかかった上杉政虎の一太刀を、武田信玄は持っていた軍配で受け止めたという逸話ですが、これに関しては後世の創作であるという説が濃厚です。

本合戦は、武田家重臣「山本勘助」や、武田信玄の弟「武田信繁」が討ち死にするなど、武田軍へ甚大な被害を与えたものの、明確な決着がつかないまま終わりを迎えます。
1561年(永禄4年)11月、上杉政虎は「生野山の戦い」(なまのやまのたたかい)で北条氏康と対峙しますが、川中島の戦いの損害が響いて敗戦。しかし、松山城から北条軍を退けることには成功しました。

そして、敗れた上杉政虎に次の試練が襲い掛かります。それは、同族である「上杉憲盛」(うえすぎのりもり)などによる裏切り。諸将が北条側に寝返ったことで状況が一変したのです。

上杉政虎は、裏切った諸将を再び服従させようと動きますが、難攻不落と言われた「唐沢山城」の攻略が難航し、1560年(永禄3年)に始まった「唐沢山城の戦い」はその後、1570年(元亀元年)に上杉政虎が兵を引くまで10回に亘り行なわれました。
1561年(永禄4年)は、上杉政虎が名前を「上杉輝虎」(うえすぎてるとら)に改名した年でもあります。

翌年の1562年(永禄5年)7月には越中国に出陣して勢力を拡大しますが、関東を空けている間に北条・武田連合軍5万人による松山城襲撃を受け、劣勢に陥りました。国境が雪で塞がれている状態での急襲であり、上杉輝虎は急ぎ松山城へ向かいましたが間に合わず落城。

しかし、上杉輝虎は松山城陥落をものともせず、武蔵国や下野国(現在の栃木県)、下総国(現在の千葉県北部、茨城県の一部)、常陸国(現在の茨城県)へと攻め込み、諸城を次々と攻略していきました。

1564年(永禄7年)、最後の川中島の戦い(第五次川中島の戦い)が勃発。60日にも亘る戦いの結果は引き分け。そして、この戦いを最後に上杉輝虎と武田信玄が川中島で戦うことはなくなります。

1565年(永禄8年)、関東統治に欠かせない要衝「関宿城」(せきやどじょう)を巡る「第一次関宿合戦」で、上杉輝虎は苦戦を強いられるだけではなく、関東にいる上杉方諸将の離反というさらなる追い打ちをかけられました。
武田信玄が北条氏康との甲相駿三国同盟を破って駿河国(現在の静岡県)へ侵攻したことで、両者は盟友から敵対に関係を変えて、戦況は三つ巴の状態となりさらに混沌を極めます。

1569年(永禄12年)に上杉輝虎と北条氏康は「越相同盟」(えつそうどうめい)を締結。武田信玄への牽制の意味と、北条方の侵攻を止めるための軍事同盟でした。

一方で関東諸将らは、度重なる関東出兵に対する不満が溜まっており、この同盟でさらに上杉輝虎へ不信感を抱くようになります。長年に亘って北条氏と敵対関係にあった安房国(あわのくに:現在の千葉県安房郡)の大名「里見義弘」(さとみよしひろ)は、上杉輝虎との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結びました。

1570年(元亀元年)12月、上杉輝虎は出家して法号「不識庵謙信」(ふしきあんけんしん)を称し、この時点から「上杉謙信」と名乗るようになります。
1571年(元亀2年)10月、北条氏康がこの世を去ったことをきっかけに、再び状況は変わりました。北条氏康の次男「北条氏政」(ほうじょううじまさ)が家督を継いだことで、上杉側との同盟を破棄。北条氏政は、武田信玄と同盟を結び直して、上杉謙信と敵対するようになったのです。

1574年(天正2年)、上杉謙信は利根川を挟んで北条氏政と睨み合っていましたが、増水していた利根川を渡れず、相対したまま撤退。同年の「第三次関宿合戦」では、関東諸将らが救援軍を出さなかったことで上杉謙信は攻撃することができないまま、関宿城は降伏。この時点で、関東における上杉派の勢力は大幅に低下していました。
1576年(天正4年)、能登国(現在の石川県北部)の覇権を手に入れるために上洛を急いでいた上杉謙信は、能登国の拠点「七尾城」に目を付けます。

七尾城内では、上杉謙信に頼りたい派閥と、「織田信長」に付こうと考えている派閥で内部対立が起きていました。上杉謙信は、戦わずして掌握しようと近づきましたが交渉は決裂し、能登国の覇権を賭けた「七尾城の戦い」が開始されます。

上杉謙信は、まず外堀から埋めるため、能登国の諸城を次々と攻略していき、七尾城を孤立させることに成功しました。

しかし、七尾城は松尾山の山上に築かれた難攻不落の山城だったため、上杉謙信は攻略に約1年もの時間を要することになります。さらに同時期、追い打ちをかけるように北条軍の進軍や敵軍による諸城奪還で戦況は悪化していきましたが、上杉謙信は七尾城攻略を諦めませんでした。

1577年(天正5年)、長い籠城戦の末に七尾城内では疫病が流行したため、ついに降伏。こうして上杉謙信は、能登国の覇権を握ることに成功したのです。
上杉謙信が七尾城を攻略した同年、七尾城からの援軍要請を受けていた織田信長は、救援のため軍勢を派遣しようとしていました。

そして、「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」をはじめ、3万にも及ぶ大軍で進軍を開始。加賀北部へ進軍したことを知った上杉謙信は、迎え撃つために一気に南下します。

一方で織田軍側は道中で意見の相違から、豊臣秀吉が離脱するなど足並みが揃わない状況が続いた上に、上杉軍がすでに目と鼻の先に着陣している連絡を受け、形勢不利を悟って撤退を開始。その状況を見た上杉謙信は、手取川を渡る織田軍を追撃し、撃破に成功するのです。

そして、その翌年の1578年(天正6年)。遠征から春日山城に戻った上杉謙信は、次の遠征に向けて準備を行なう最中に城内の厠で倒れ急死。享年49歳。死因は、脳溢血などの病気と言われています。

エンドウ

エンドウさん(男性)

9位(91点)の評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

勝率97%の天才戦くん

やはり敵に塩を送るというのは「義」をかけて戦うというところはさすがというほかないと思う。京都にある毘沙門堂の「毘沙門天」を信仰し、次々と戦に勝っていった「軍神」は戦国時代の王でしょう!でも、伊達政宗に越されたのは少し不満ですが、コレクションしている武将甲冑の中で上杉謙信の甲冑もありますが、毘沙門天がとても印象的で大切に保管しています!(僕も上杉謙信に仕え、手柄を立て、上杉謙信の信頼を得るような家臣になりたかったなーとつくづく思います…)

おだのぶにゃがさんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

最強

上杉謙信は川中島の戦いで武田軍の作戦を見破り、それに加え、山本勘助や武田信繁などの優秀な武田の家臣をうちました。それに加え、別働隊が戻ってこなかったら、本隊が崩壊してしまい武田が滅亡してしまうかもしれないから強い。北条氏康との戦いは初めて小田原城まで攻め込みました。信玄が上杉軍の背後をついていなければ、北条氏が滅亡していました。手取川の戦いで織田家臣筆頭の柴田勝家を総大将とする織田軍が攻め込んできても、気候や地の利を活かして戦い、織田軍に勝ったから最強。あと5、6年生きて入れば北条氏が滅亡し、織田信長を倒している可能性がありました。それなのに天下は望まず、助けを求めてきた人だけを助けすという義に熱い人だと思いました。それに加え、青苧や苧などの産業にも力をそそいでいてすごいと思いました。

ゲストさんの評価

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