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1位徳川家康
2位北条氏康
上杉と武田から関東を守り切った関東の雄
氏康は見事な騙し討ち作戦と夜襲攻め作戦を合わせて上杉の大軍に大勝利した。
それに、上杉・武田などと強力な大名と何度も対立し、戦ったが、関東に攻めてきたときは毎回、敵にすぐに勝利し、撃退させた。政治も安定しており、民からも慕われる関東の雄。
3位伊達政宗
勇敢で天才な独眼竜
仙台藩を発展させ、強力な藩にしたり、片目が見えないからといって弱く、あまり頼りにならないのではないことを示せた武将です。
周囲の大名には堂々と戦を仕掛け、勝ち戦を続けて勢力を広げ、度胸は満点で、武勇も真田十勇士のいる真田信繁と渡り合えたほど。しかし関白秀吉には従い、関ヶ原の戦いの時は家康についたので伊達家の未来を守れる武将でもあることがいえます。
また、罪を疑われたときに相手の趣味(性格)に合わせたことをして罰を最小限にとどめた天才でもある。
東国の中では、政宗は北条氏康に次いで強くて天才だと思う。
4位本多忠勝
日本一の猛将
猛将という意味ですぐに思いつくのはやはり本多忠勝です。
本多忠勝は三方原の戦いや関ヶ原の戦いで大きい活躍を見せて武田でも恐れた。長さ6mの蜻蛉切で敵を苦しめた強さは徳川の家臣で最強どころではなく、日本一の猛将と言って良いぐらいです。流石の井伊直政や山県昌景に勝るでしょう。
5位島津義弘
確かに猛将だけど馬鹿
島津家第一の猛将として活躍してきたが、関ヶ原の戦いの時の適中突破の決断は間違っていたと思う。1000人の軍勢のうち、920人もの家来が死しまったから、そこは評価できない。自分の力を過大評価しすぎたのだろうか。
6位真田幸村(真田信繁)
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。
強くない
最初の徳川に突撃したのは毛利勝永のうえに,真田十勇士による活躍が大きすぎだった。家康を怖がらせたのは信繁ではなく、真田十勇士だったのである。 夏の陣では堀埋め作戦に巻き返せる強い作戦が思いつかず、ただ突撃をするだけだったので討ち取られたということで信繁は強くないと思います。
7位豊臣秀吉
名前だけの天下人
秀吉は戦に関わっていないで、ずっとリラックスしているだけ。
備中高松城の戦いの時は官兵衛が主君なのと同じだし、賤ヶ岳の戦いの時は加藤・福島・長束などだけの活躍で勝ったということになるし、小田原の時は自分だけリラックスしているだけだった。天下というのは名前だけであり、義は下剋上の世で天下人になれる人材じゃない。 さらに1590年代には2度も明・朝鮮出兵をした。当時の日本とは桁違いの明を甘くみすぎている。それに千利休・豊臣秀次を切腹させていて、官兵衛が思うとうり、秀吉が天下人として日本を治めるのは危険すぎる。名前だけの天下人とはこういうことだ。普通の家臣だったら秀吉を支えてきたことに後悔していたことだろう。
8位織田信長
日本一過大評価されている武将
金ヶ崎の戦いでは自分から無茶なことをして家臣を置き去りにして自分だけ敗走し、姉川の戦いでは兵の少ない浅井長政に圧倒されて本陣にまで迫られ、和歌川の戦いでは自分の50分の1の兵しかいない雑賀衆にボロ負けた。
いずれも優秀家臣や同盟相手の手助けがないと生き残れずに、信長が討ち討ち取られていた可能性が極端に高い戦であり、信長は今までの活躍のほとんどがが黒田・蒲生・丹波・柴田・竹中・明智・徳川などの家臣団・同盟相手の力だけで成り立っているどころか、勢力維持をすることすらその武将たちの力だけだという。それに、その頼みの綱の家臣も信長の振る舞いのせいで松永・荒木・明智などと勇将が去って行く。信長は弱すぎる。過大評価されすぎである。
無双の頭、天下の政策
一つ目は並外れた頭脳です。大坂の陣では大阪城の鉄壁さに苦戦したが、大砲を撃つという戦国のどんな城も落とすことができる策略を思いつき、城取り名人の山本勘助よりすごくいと思います。若い頃も信長は家康に恐れていて、今川家の当主よりもその家臣の家康の方が大きくうつってそうです。また、関ヶ原の戦いで小早川軍が直ぐに動かなかった時も怒って終わりではなく、空鉄炮を撃ち、使者を何度も送り込みました。
二つ目は江戸幕府の支配体制で、源頼朝・足利尊氏・足利義満でも思いつかなかった、大名を貧乏にさせ、力を持たせないようにする政策を使いました。また、他の将軍とは違い、先進した欧州との貿易を積極的に行っていて、それは外国人まで家臣にしているほど。