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ゲスト12さんの「戦国武将最強ランキング」

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更新日: 2022/11/06

ゲスト12

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ランキング結果

1徳川家康

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。

無双の頭、天下の政策

一つ目は並外れた頭脳です。大坂の陣では大阪城の鉄壁さに苦戦したが、大砲を撃つという戦国のどんな城も落とすことができる策略を思いつき、城取り名人の山本勘助よりすごくいと思います。若い頃も信長は家康に恐れていて、今川家の当主よりもその家臣の家康の方が大きくうつってそうです。また、関ヶ原の戦いで小早川軍が直ぐに動かなかった時も怒って終わりではなく、空鉄炮を撃ち、使者を何度も送り込みました。
二つ目は江戸幕府の支配体制で、源頼朝・足利尊氏・足利義満でも思いつかなかった、大名を貧乏にさせ、力を持たせないようにする政策を使いました。また、他の将軍とは違い、先進した欧州との貿易を積極的に行っていて、それは外国人まで家臣にしているほど。

2北条氏康

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。

上杉と武田から関東を守り切った関東の雄

氏康は見事な騙し討ち作戦と夜襲攻め作戦を合わせて上杉の大軍に大勝利した。
それに、上杉・武田などと強力な大名と何度も対立し、戦ったが、関東に攻めてきたときは毎回、敵にすぐに勝利し、撃退させた。政治も安定しており、民からも慕われる関東の雄。

3伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

勇敢で天才な独眼竜

仙台藩を発展させ、強力な藩にしたり、片目が見えないからといって弱く、あまり頼りにならないのではないことを示せた武将です。
周囲の大名には堂々と戦を仕掛け、勝ち戦を続けて勢力を広げ、度胸は満点で、武勇も真田十勇士のいる真田信繁と渡り合えたほど。しかし関白秀吉には従い、関ヶ原の戦いの時は家康についたので伊達家の未来を守れる武将でもあることがいえます。
また、罪を疑われたときに相手の趣味(性格)に合わせたことをして罰を最小限にとどめた天才でもある。
東国の中では、政宗は北条氏康に次いで強くて天才だと思う。

4本多忠勝

本多忠勝

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

日本一の猛将

猛将という意味ですぐに思いつくのはやはり本多忠勝です。
本多忠勝は三方原の戦いや関ヶ原の戦いで大きい活躍を見せて武田でも恐れた。長さ6mの蜻蛉切で敵を苦しめた強さは徳川の家臣で最強どころではなく、日本一の猛将と言って良いぐらいです。流石の井伊直政や山県昌景に勝るでしょう。

5島津義弘

島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている。

確かに猛将だけど馬鹿

島津家第一の猛将として活躍してきたが、関ヶ原の戦いの時の適中突破の決断は間違っていたと思う。1000人の軍勢のうち、920人もの家来が死しまったから、そこは評価できない。自分の力を過大評価しすぎたのだろうか。

6真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

強くない

最初の徳川に突撃したのは毛利勝永のうえに,真田十勇士による活躍が大きすぎだった。家康を怖がらせたのは信繁ではなく、真田十勇士だったのである。                                  夏の陣では堀埋め作戦に巻き返せる強い作戦が思いつかず、ただ突撃をするだけだったので討ち取られたということで信繁は強くないと思います。

7豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。

名前だけの天下人

秀吉は戦に関わっていないで、ずっとリラックスしているだけ。
備中高松城の戦いの時は官兵衛が主君なのと同じだし、賤ヶ岳の戦いの時は加藤・福島・長束などだけの活躍で勝ったということになるし、小田原の時は自分だけリラックスしているだけだった。天下というのは名前だけであり、義は下剋上の世で天下人になれる人材じゃない。                                さらに1590年代には2度も明・朝鮮出兵をした。当時の日本とは桁違いの明を甘くみすぎている。それに千利休・豊臣秀次を切腹させていて、官兵衛が思うとうり、秀吉が天下人として日本を治めるのは危険すぎる。名前だけの天下人とはこういうことだ。普通の家臣だったら秀吉を支えてきたことに後悔していたことだろう。

8織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

日本一過大評価されている武将

金ヶ崎の戦いでは自分から無茶なことをして家臣を置き去りにして自分だけ敗走し、姉川の戦いでは兵の少ない浅井長政に圧倒されて本陣にまで迫られ、和歌川の戦いでは自分の50分の1の兵しかいない雑賀衆にボロ負けた。
いずれも優秀家臣や同盟相手の手助けがないと生き残れずに、信長が討ち討ち取られていた可能性が極端に高い戦であり、信長は今までの活躍のほとんどがが黒田・蒲生・丹波・柴田・竹中・明智・徳川などの家臣団・同盟相手の力だけで成り立っているどころか、勢力維持をすることすらその武将たちの力だけだという。それに、その頼みの綱の家臣も信長の振る舞いのせいで松永・荒木・明智などと勇将が去って行く。信長は弱すぎる。過大評価されすぎである。

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