直江兼続の詳細情報
生没年 | 1560年〜1619年 |
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直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。直江兼続(樋口与六)はお船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えた。 (引用元: Wikipedia)
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学問にも武芸にも優れた武将
学問や武芸にも優れていて、上杉景勝の家臣の中でTPの座に着くような人。
景勝は政治も慶長出羽合戦も兼続に任せたり、家康に送りつけた直江状について新たなボスができたかのように怒ったりしたことも含めて兼続は強いと思います。
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徳川家康を口説き落とす
直江兼続は、直江状という文をだして、徳川家康を挑発、反論、さらには激怒までさせた武将。この直江状が関ヶ原の戦いの原因にもなるすごい文であった。
家臣の武将がだーいすきさんの評価
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直江兼続の見事な退却戦
越後国の戦国武将上杉謙信と上杉景勝に仕えた家臣です。特徴のある「愛」の文字が付いた兜を被り、主君・上杉景勝を何度も助けて勝利に導くなど、軍事・治政の両面で知将として知られています。
1600年(慶長5年)4月、上杉景勝の前に会津国を治めていた堀秀治が、上杉家に謀反の疑いありと徳川家康に報告。このとき直江兼続が徳川家康に送った手紙が、有名な直江状です。要約すると「こちらに謀反の心など全くないのに、つまらない讒言(ざんげん:相手を陥れるための悪口)を信じる方がどうかしている」という内容でした。
徳川家康は、明らかな挑発であると激怒して、上杉家に対して会津征伐を開始。これをチャンスと見た石田三成達豊臣方の武将が蜂起したことが、関ヶ原の戦いの引き金になったのです。会津国に向かった徳川家康軍ですが、石田三成挙兵の知らせを聞くと、すぐにUターン。このとき、直江兼続は上杉景勝に「今こそ追いかけて家康を討たれよ」と進言します。しかし上杉景勝は「ここで家康公を攻めれば、(ともに五大老に選んだ)太閤殿下の命令にそむくことになる」とこれを拒否。直江兼続は徳川家康の追討を断念しました。このとき、会津国に攻め込んできたのが、伊達政宗と最上義光です。直江兼続は最上軍を返り討ちにし、最上氏の重要拠点である山形城に接近。しかし、その手前の長谷堂城で猛烈な反撃に遭い、進退きわまります。そのさなか、関ヶ原の戦いで徳川家康が完勝したという知らせが届くのです。このまま戦いを続けると、再び徳川家康が攻めてくると判断した直江兼続は、退却を決定。実は、ここからが大変でした。撤退する側は、勢いに乗って追いかけてくる側よりも圧倒的に不利。直江兼続はわずかな手勢を率いて、最も危険な殿を守り、何度も死にそうになりながら米沢城まで到着しました。この直江兼続の見事な退却戦は、のちに敵将の最上義光どころか徳川家康までもが絶賛しています。
エンドウさん(男性)
7位(94点)の評価