徳川家康の詳細情報
生没年 | 1543年〜1616年 |
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徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。(引用元: Wikipedia)
徳川家康がランクインしているランキング
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稀代の政治家
260年のあいだ続いた徳川幕府の礎を築いた偉大な人物だと考えます。戦国大名として乱世の中でじっと耐えながら、晩年に大成舌姿は、中高年男性サラリーマンの有りたい姿だと考えます。織田信長や豊臣秀吉のような派手さは有りませんが、堅実な人生は見習いたいと思いますl
なんと445さんの評価
三河の誇り
私の地元である三河地方の出世頭といえば徳川家康です。
なんと言っても戦国時代を終わらせ200年の平和の時代を作り上げた功績はとても大きいです。
幼少期に織田、今川に板挟みにあいながら、耐えて耐えて天下統一をした姿勢には見習わなくてはいけないと常々思います。
さわやかレモン22さんの評価
文句無しの戦国最強
徳川家康の強さは、戦国最強だと思います。
頭脳
戦いにおいて的確で素早い対応ができる他、関ヶ原の戦いでは、石田三成を掌で泳がせて自身の為に貢献させ、三成を餌にして武断派大名を操るなどの深謀遠慮を見せた。
武力
本多忠勝がいるので盤石。それ抜きにしても初陣での戦いぶりを考えると相当強い。三方ヶ原の戦いでも20000の武田軍を3000の兵で足止めしたり、小牧長久手の戦いも的確な判断があったとはいえ、10万の豊臣軍相手に優勢に戦いを進めた。また、実質的に三方ヶ原の戦い以外は無敗である。
政治
幕府成立後の政治にも工夫が凝らされており、政治力もかなり高い。
統率力
強力な家臣団をまとめるほどの統率力がある。
経済力
経済的要所を多数押さえており、経済戦術は比較的得意な模様
西洋とも積極的な貿易を行なっている。
その他の強み
敵大名の遺臣でも優秀であれば家臣として取り立てる。
慎重な性格の持ち主であり、チャンスを待って行動する。
魔王さんの評価
最終的に天下人
やっぱり、最終的に天下を取ったんだから、トップ5には入れておくべきでしょう。信長、秀吉に学び、天下統一まで果たすとは、二人に負けない化け物です。しかし、どうもずるさが強調されがちですね。も最後に豊臣家を滅ぼしたのも、必然的な行動だったんでしょうが・・・いやはや難しい。
イリエーヌちゃんさんの評価
秀吉とは違う真の天下人
一つ目は並外れた頭脳です。9歳の時に石合戦の勝利を当て、大坂の陣では大阪城の鉄壁さに苦戦したが、大砲を撃つという戦国のどんな城も落とすことができる策略を思いつき、城取り名人の山本勘助よりすごくいと思います。若い頃も信長は家康に恐れていて、今川家の当主よりもその家臣の家康の方が大きくうつってそうです。
二つ目は江戸幕府の支配体制で、源頼朝・足利尊氏・足利義満でも思いつかなかった、大名を貧乏にさせ、力を持たせないようにする政策を使いました。また、他の将軍とは違い、先進した欧州との貿易を積極的に行っていて、外国人まで家臣にしているほど。
ゲスト9さんの評価
地元のヒーローで、徳川家康が昔から身近に感じていました。先祖との関わりがあるので私としては特に誇らしいです。
まず、地元ということが大きく、小さいときから家康の生まれた所で育ちました。毎日岡崎城に散歩もしていました。そして私の先祖とも関係あります。そのため一番身近な存在で、地元民として天下統一までした家康は、誇らしいです。うちの先祖と似て、ずる賢さがあり、性格的にはあまり好かれてない印象もありますが、そのずる賢さがあったからこそ、天下統一ができたんだと思います。
三河未来の古娘さんの評価
敗戦の多い徳川家康だが小牧長久手の戦いでは見事に勝利を収める
1564年(永禄7年)、「三河一向一揆」を鎮圧させて、その勢いのままに東三河・西三河を平定。無事に三河国を統一した徳川家康は、1566年(永禄9年)に朝廷から「従五位下三河守」(じゅごいのげみかわのかみ)に叙任されて、松平姓から「徳川」姓へと改めました。
徳川家康にとっての最大の負け戦と言えば、甲斐国(現在の山梨県)「武田信玄」と激突した「三方ヶ原の戦い」です。
1572年(元亀3年)、甲斐を出発した武田信玄が北近江の浅井氏、越前の朝倉氏、そして大坂の石山本願寺・反織田勢力と結託して信濃から遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)に侵攻。徳川家康を牽制する目的で二俣城(ふたまたじょう)を陥落させます。二俣城が落ちたことで、徳川家康が本城としていた浜松城は、掛川など東部拠点との連絡線を絶たれて窮地に陥りました。
徳川家康は、次に武田軍に攻め込まれるとすれば浜松城だろうと予測を立てて、浜松城に籠城します。このとき、織田信長からの援軍と徳川家康軍合わせて約11,000人。これに対して武田軍は約30,000人の軍勢を率いており、多勢に勝利するには籠城戦が最適だったのです。
しかし、ここで武田軍が思わぬ動きを見せました。浜松城へ向かっていたはずの武田軍が突如進路を変えて、三河国(現在の愛知県)方面へと進撃を開始したのです。戦国時代において、進行上の城へ攻め込まないというのは異例の事態でした。武田信玄による目に見えた挑発行為でしたが、徳川家康はこの挑発に乗ってしまいます
最初こそ徳川家康軍が優勢を取っていましたが、戦力差による不利が次第に見え始め、ついに徳川家康は敗走。辛くも浜松城へ逃げ帰ったというのがこの戦いの顛末です。この敗走で、徳川家康を守るために有力な家臣が多く戦死しています。
「本能寺の変」で織田信長が「明智光秀」(あけちみつひで)に討たれる前日、徳川家康は堺で商人と茶会を開いていました。茶会の翌日、上洛しようとしていたところで織田信長の訃報を聞き付けます。
このとき、徳川家康が伴っていた従者は30名余り。その中には、「徳川四天王」として名高い「本多忠勝」や「井伊直政」など、有力な家臣も多くいました。しかし、僅かな手勢であったため大軍に襲われればひとたまりもありません。徳川家康は、家臣からの説得に応じると三河国へ帰国することを決意します。
これは、「神君伊賀越え」と呼ばれる徳川家康にとっての災難のひとつ。この時点で危惧しなければならないのは、明智光秀の手の者だけではなく、織田信長の去就定まらない家来、在地の土豪や百姓達の襲撃。特に、自分達の村を侵入者から守るために武装した農民による落ち武者狩りは脅威でした。事実、明智光秀は織田信長を討ったあとに落ち武者狩りに遭い、その際の傷が致命傷となって命を落としています。
武装する農民達を退け、道中では織田家の家臣「長谷川秀一」や「西尾吉次」などに助けられながら険しい道を乗り越えた徳川家康一行は、無事に三河国へ到着。そして徳川家康は、出世頭であった豊臣秀吉が、天下取りに向けて織田信長の家臣と戦を繰り広げる様子を一旦見守ることになります。
本能寺の変以降、徳川家康は領主不在の甲斐・信濃・上野を攻略するために北条氏と同盟・縁戚関係を結び、遠江・三河と併せて5ヵ国の大大名に上り詰めました。
そして1584年(天正12年)、徳川家康は、織田信長の死後に豊臣秀吉と対立するようになった織田信長の2男「織田信雄」(おだのぶかつ)の救援のために豊臣秀吉軍と対峙することになります。
「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるこの合戦は、約16,000人の徳川家康・織田信雄軍に対して、豊臣秀吉軍は約100,000人と兵力に大きな開きがありましたが、小牧山での奮戦により豊臣秀吉軍を撃退。続く長久手の戦いで徳川家康軍が豊臣秀吉軍を襲撃し、豊臣秀吉軍の「池田恒興」(いけだつねおき)、「池田元助」(いけだもとすけ)、「森長可」(もりながよし)を討ち取ります。連戦連勝の豊臣秀吉軍にとっては手痛い敗北でした。
その後、約8ヵ月に及んだ小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉から講和を持ちかけられた織田信雄が受諾する形で終結。織田信雄の援軍という名目で参戦していた徳川家康は、戦う理由を失ったために三河へと帰国しました。
1586年(天正14年)になると、豊臣秀吉は徳川家康を服属させようと接近します。臣従することを拒否していた徳川家康に対して、豊臣秀吉は実妹「朝日姫」を後妻として差し出し、義兄弟になりました。
その後、徳川家康は大坂城で豊臣秀吉に謁見。譜大名の前で忠誠を誓い、1590年(天正18年)の小田原征伐には豊臣秀吉軍として参戦し、大きな戦功を挙げます。
関東8ヵ国を拝領した徳川家康は、関東の領地経営や軍制改革に専念し、有力な家臣を各地に配置するなどして難なく統治を実現しました。
豊臣秀吉の狙いは、大きくなった徳川家康の力を削ぐためでしたが、豊臣秀吉の思惑とは裏腹に次第に関東での支配力を拡大。徳川家康は、武田軍の旧家臣や北条氏の家臣を迎え入れ、申し分ない軍事力を蓄えていったのです。
関東で着実に力を付けていった徳川家康は、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が没すると、いよいよ天下取りの最後の仕上げに踏み切ります。
徳川家康は、豊臣秀吉の遺言により「五大老」の筆頭に着任。豊臣秀吉の遺言である「諸大名同士の結婚の禁止」を破って「福島正則」らと婚姻関係を結ぶ他、禄高(ろくだか:武士の給料)の増減に関与するなど、豊臣秀吉政権に反発する動きを見せます。
そんな徳川家康の暴走を見かねて立ち上がったのが、「五奉行」の筆頭に就いていた豊臣秀吉の重臣「石田三成」。
徳川家康は、天下を取るにあたり、石田三成が障害になると見越しており、石田三成を失脚させるために、「加藤清正」や福島正則を味方に付けました。
1600年(慶長5年)、五大老のひとり「上杉景勝」に謀反の疑いがあるとして、徳川家康は討伐軍を結成。「会津征伐」と言われるこの挙兵は、のちに起きる「関ヶ原の戦い」のきっかけと言われています。
上杉景勝を討伐するために会津へと向かう途中で、徳川家康の耳に石田三成らの挙兵の報せが入りました。徳川家康は、会津への進軍をただちに取りやめると、石田三成討伐へと動き出します。豊臣政権や石田三成らに反感を抱いていた諸大名を招集して東軍を結成。石田三成は、豊臣政権を守るために徳川家康率いる東軍と衝突します。
天下分け目の戦いは、美濃国(現在の岐阜県)「関ヶ原」で繰り広げられました。開戦当初は西軍側が優勢でしたが、次第に西軍側から東軍側へ寝返る兵が増えていきます。本戦開始から約6時間後、混乱を極めた戦場で西軍側の諸将が次々と敗走。
そして、松尾山で傍観していた西軍の「小早川秀秋」が東軍へ寝返り、西軍「大谷吉継」隊へ攻め込みました。これが決定打となり、徳川家康率いる東軍は勝利を収めます。合戦から数日後、逃亡していた石田三成は捕縛され、京都の六条河原で処刑されました。
すごい人だけど・・・・・・・・
豊臣秀吉に不満を持つのは分かる。
そして関ヶ原の戦いで石田三成を殺して、将軍になり、豊臣家を滅ぼし、天下人になった。ずるいと思う。だって信長が最初天下統一を築き、秀吉が、全国を統一したのに、家康は淀殿(茶々)と秀頼を自害させて、自分が天下人になるなんて。家康ファンの人、すみません。
戦国時代超大好き‼️さんの評価
全てに優れている無双
家康の強さは、一つ目は並外れた頭脳です。大坂の陣では大阪城の鉄壁さに苦戦したが、大砲を撃つという戦国のどんな城も落とすことができる策略を思いつきました。まるでこれまでの常識をひっくり返すようです。若い頃も信長は家康に恐れていて、今川家の当主よりもその家臣の家康の方が大きくうつってそうです。また、関ヶ原の戦いで小早川軍が直ぐに動かなかった時も怒って終わりではなく、空鉄炮を撃ち、使者を何度も送り込みました。
二つ目は江戸幕府の支配体制で、前には誰も思いつかなかった、大名を貧乏にさせ、力を持たせないようにする政策を使いました。また、他の将軍とは違い、先進した欧州との貿易を積極的に行っていて、それは外国人まで家臣にしているほど。
他に、家康は寺部城攻め・桶狭間の戦いで丸根砦などを攻める時などでなかなかの武勇も発揮しました。
無双の頭脳、天下の政策、なかなかの武勇が揃っている武将は家康ほどしかいません。
ゲスト1号さんの評価
無双の頭脳、天下の政策、なかなかの武勇
一つ目は並外れた頭脳です。大坂の陣では大阪城の鉄壁さに苦戦したが、大砲を撃つという戦国のどんな城も落とすことができる策略を思いつき、城取り名人の山本勘助よりすごくいと思います。若い頃も信長は家康に恐れていて、今川家の当主よりもその家臣の家康の方が大きくうつってそうです。また、関ヶ原の戦いで小早川軍が直ぐに動かなかった時も怒って終わりではなく、空鉄炮を撃ち、使者を何度も送り込みました。
二つ目は江戸幕府の支配体制で、源頼朝・足利尊氏・足利義満でも思いつかなかった、大名を貧乏にさせ、力を持たせないようにする政策を使いました。また、他の将軍とは違い、先進した欧州との貿易を積極的に行っていて、それは外国人まで家臣にしているほど。
他に、家康は寺部城攻め・桶狭間の戦いで丸根砦などを攻める時などでなかなかの武勇も発揮しました。
無双の頭脳、天下の政策、なかなかの武勇が揃っている武将は家康ほどしかいません。
ゲスト15さんの評価
無双の頭、天下の政策
一つ目は並外れた頭脳です。大坂の陣では大阪城の鉄壁さに苦戦したが、大砲を撃つという戦国のどんな城も落とすことができる策略を思いつき、城取り名人の山本勘助よりすごくいと思います。若い頃も信長は家康に恐れていて、今川家の当主よりもその家臣の家康の方が大きくうつってそうです。また、関ヶ原の戦いで小早川軍が直ぐに動かなかった時も怒って終わりではなく、空鉄炮を撃ち、使者を何度も送り込みました。
二つ目は江戸幕府の支配体制で、源頼朝・足利尊氏・足利義満でも思いつかなかった、大名を貧乏にさせ、力を持たせないようにする政策を使いました。また、他の将軍とは違い、先進した欧州との貿易を積極的に行っていて、それは外国人まで家臣にしているほど。
ゲスト12さんの評価
江戸の創作者、徳川家康
徳川家康さんは、戦国武将をあまり知らない自分でも、徳川家康さんについて、1つだけ、言える凄い事が有ります。それは、天下人になって、戦の無い江戸の時代を作った事です。多分知っているとは思いますが、若い時、戦に負けた時、「大」を怖すぎて漏らした事が、面白くて徳川家康さんを選んだ理由です。
オオオ大王さんの評価
有能で狡猾
江戸幕府の祖。彼自身が将軍位に就いていたのはわずか2年間だが、徳川将軍家が政権を担っていくというパフォーマンスとしては結構いい。幕藩体制に関しても悪くない。ただし、経済に関しての先見の明は無いようで、江戸幕府は米を基軸とした経営を強いられた。
ちなみに、徳川家康自身は朱印船貿易など、海外との交易には熱心に取り組んでおり、徳川家康が鎖国をしたというのは間違い。それに鎖国したから欧米に遅れたと言っているが、少なくとも産業革命が起こるまでは日本は世界有数の軍事大国だった。また、経済面では欧米より先に管理通貨制度の考えが生まれていた。
将博士さんの評価
最終的に天下を取り戦国の世を終わらせた傑物
織田信長、豊臣秀吉と並んで有名な武将である徳川家康、言わずと知れた江戸幕府を開いたその人である。激動の戦国時代を生き抜いて最終的に天下人として江戸幕府の基礎を築いた傑物である。「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」なんて川柳にある通り辛抱強く機会を待ち、きっちり天下統一に至った手腕は間違いなく天才のそれだ。
k0j1さんの評価
すごいけど............
徳川家康は天下人ですごいことは分かるけど、私の敵💦💦💦
家康公ファンの人ごめんなさい🙏
ちなみに私は大谷吉継🎀ファンです❣️
けれど、関ヶ原の時の家康の戦い方が前に負けた事を活かしていてとてもかっこいいです(((o(*゚▽゚*)o)))😍
もし大谷吉継が東軍だったら(多分だけど💦)1番家康公が好きだと思いました💭
天国👼🌈💐に向けて『尊敬してます』と家康公に言いたい❣️
それと江戸時代を開いたり、戦の世を終わらせたりしたので、そういう所では1番大好きです😉❤️
改めて家康公ファンの人私の敵なんて言ってごめんなさい🙏🙇♀️🥺
🙋宣言🔥
これからは家康公の事、悪く言いません🤞
他の人の事も悪く言いません‼️
家康公の良いところ 新しいの見つけたら、また投稿します❣️❤️🥰💝
(この文考えてる間に家康公の事好きになってきた😘)
ゲストちゃん🥰さんの評価
家臣に恵まれただけの人
家康は正直家臣達に助けられて将軍になれたと言っても過言ではない。
家康は本多忠勝や井伊直政などの戦で活躍する家臣。
榊原康政や酒井忠次などの政治面などで活躍する家臣。
本田正信などの知略で活躍する家臣。
これらの人たちがいたから将軍になれたんです。
結局は豊臣の天下奪ったし。
なんなら大阪の陣で家康は討ち取られてた可能性、全然ある。
戦国時代大好き小学生さんの評価
これこそ戦国最強
家康は滅亡した大名の家臣を受け入れたり、自分に勝った大名の作戦を真似したりして徳川の勢力を拡大させ、最終的には天下を取った。
政治体制・策略などにおいても1575年 以降の合戦から見たら1位と言って良いでしょう。戦国最強です。
ゲスト1さんの評価
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日本を敗戦国にした狸おやじ
もっとも愚政策な鎖国をもって、当時欧州諸国にも負けない程の軍事強国だった日ノ本の発展を阻害した。徳川幕府、一強のために他藩の力を削く政策を200年続け日本の近代化は20年は遅れた、もし日本人(アジア人)が欧米諸国と対等に渡り合っていたなら、当時の白人至上主義もかなり変わっていた。アジアの多くはもっと早くに独立出来ていたかもしれないしそもそも日本の後押しがあれば、植民地化されない国もあったであろう。そうなれば大東亜戦争もなかったかもしれない。徳川の罪はあまりにも大きい
さくらさんの評価