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織田信長に関するランキングとコメント・口コミ

織田信長

最高評価

78.0

(2,225人の評価)

戦国武将最強ランキング」で最も高い評価を得ています。

織田信長の詳細情報

生没年1534年〜1582年

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。(引用元: Wikipedia)

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戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

頭脳明晰、臨機応変

織田信長、本当に天下統一あと一歩で力尽きてしまったんだけど、本当にすごいと思う。尾張国の守護代一族から様々な戦を経てここまで残ってきたのはもはや怪物としか言いようがない。更に戦の合間には多くのものが考えつかなかったような制作を次々と実行に移していく。これはもはや万能人間ですね。ただ、その万能人間にもやはり欠点があって、ちょっと家臣とにコミュニケーションがうまくありませんでしたね。明智くんも可哀想な気がしますが・・・。

イリエーヌちゃんさんの評価

歴史上の人物ランキングでのコメント・口コミ

脳が飛びそうなくらい嬉しい(笑)

ここで信長豆知識!
信長さんは鳥肉が大好物・・すかしキジは美味くないと・ウズラが好き・イノシシ君も嫌い不味いとにゃ・ねこ好き・ワン公は嫌い・孤独を好む・じっとしておる事は少ない動き回る・毎日何から何まで全部チェックする性質・あまり笑わない人・自分勝手であり批判されようが知らん顔する・身内も家臣もほぼ毎日10回はこの・・たわけがが口癖・細かいと云うよりも非常に繊細人間・超健康体である・他にも伝承が多くあるがこの辺で・・現子孫も似た人が多い
思っていた以上に書いた(ノ˶>ᗜ​<˵)ノ

転生したらタピオカになるさんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

天下統一を目指した武将

『天下統一を目指した』というだけでもすごいと思う。
とにかく有名なのは『桶狭間の戦い』‼️
私は敵の上杉謙信も好き。謙信VS信長の手取川は残念・・・・・・・・
でも可哀想。だって自分がせっかくコツコツと作り上げた天下を秀吉や家康にとられたから。

戦国武将すごい‼️さんの評価

歴史上の人物ランキングでのコメント・口コミ

すごい

今 必要とされていることを何年も前にやっているすご者
外国との国際関係を深めたり、
新しい物を開発したり、
海外で開発された物ならそれを積極的に取り入れたりするなど、
今まさに必要とされていることをすでにやっている、
すごい人だと思います!

ただ、ちょっと怖そうというのと、敬遠してしまうくらい凄い人物で
近寄りがたい存在なのかもしれませんね…

五条悟さんの評価

歴史上の人物ランキングでのコメント・口コミ

かっこいいダークヒーロー(闇の正義)

私は、昔から信長が好きでした。
今川義元を打ち取り皆さんに強さを見つけて、
足利義昭の追放で、もっと印象を強め
長篠の戦いでは、武田勝頼の騎馬隊に勝ち、比叡山延暦寺を
焼いたりして、まさに怖い物なしのダークヒーローをイメージさせる
歴史人物だと思います。

マッチョマン木村さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

経済戦術の神

頭脳
桶狭間の戦いでは、情報戦で義元を誘導した上で奇襲を仕掛けて勝利したりと、情報戦においては得意としている。ただ、戦の采配は苦手なので、正面戦闘は比較的苦手。
武力
下記の経済力によって常備兵や鉄砲などの兵器で兵の質は戦国最強と言える。
経済力
堺を押さえることで貿易を独占して莫大な関税収益を得たり、経済封鎖で他の戦国武将を弱体化している。経済戦術においては間違いなく戦国最強と言えるだろう。
また、富は軍事力向上に有効活用している。

魔王さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

戦国時代を駆け抜けた男

最初は尾張一国だけだったけど、当時最強の今川義元25000の大軍をわずか、3000の兵で追い払い、斎藤義龍が、病死して斎藤氏を滅ぼしたあと信長包囲網に苦しめられるが、大名達を滅ぼす。更に家臣を分担して攻めようとするが、家来の明智光秀の謀反により、天下統一まであと少しまで追い詰めた戦国最強の大名。

うんちさんの評価

歴史上の人物ランキングでのコメント・口コミ

平和への一歩

天下を取ったのは豊臣秀吉や徳川家康だけれども、2人とも信長が積み上げてきた天下統一までの道を利用しただけだから尾張から日本のほぼの地域まで自らの力でやり遂げたのはすごいと思う。

あんまり部下にはなりたくない派だけども歴史全体を見ても成績はかなりいい方じゃないかな…

しおのおしさんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

天下統一を目指した武将‼︎

私は謙信も大好きだけれど信長も大好きです。
だって本気で天下統一を目指したから‼︎
桶狭間、姉川、比叡山焼き討ち(これは・・・・・・・・)、長篠、手取川などいろいろ天下のために頑張ってきた戦国武将‼︎
ただし・・・・・・・・最後は・・・・・・・・

戦国時代超大好き‼️さんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

かっこいい

私は一番好きな武将です。同じ出身なので、嬉しく思います。
やっぱり信長は強い!ですが、私のイメージでは家族思いの優しい人といった感じです。
信長は大うつけで有名ですが、帰蝶はもし、信長がうつけだったら、これで仕留めよ。と嫁がされています。ですが、実際殺してないので、大うつけではなかったのかも。

サーサさんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

優れた政治家

信長は、関所を廃止し楽市楽座をやったり、街道を整備したりと、経済を重視する優れた政治家で
本願寺や延暦寺の強大な仏教勢力を潰し、政教分離を進めたところも優れている。
信長は戦術面では他の戦国武将と比べ弱かったが、常備兵を準備し常に兵を動員できるような体制を作り、常備兵を用意することで兵農分離を進め一揆も起こしにくくした。
また、信長の性格は温和で部下には裏切られても許すほど甘く、欲望でだらけた僧侶を粛清したいために心を鬼にするほど仏教に心身深かった。

カロリーオフ

カロリーオフさん(男性・20代)

1位(90点)の評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

織田信長ってどんな人

最初織田信長は1534年織田信秀の子として生まれたらしい
幼名は吉法師
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り室町幕府を滅ぼした
長篠の戦いでは武田騎馬隊を倒し1582年に武田を滅ぼした
だが1582年織田信長は本能寺で亡くなった享年49
天下はあと少しだった
裏切ったのは明智光秀だった

織田信長と伊達政宗さんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

カリスマ性ですね

うつけを装いながら精鋭部隊を作り上げたり、常人が想像もつかない事をどんどん取り入れてやっていく事やその声を聞いただけで周囲を震い上げさせたところなどは戦国を生き抜いた武将としてカリスマ性を感じます。またその最期も謎に包まれているのもいいですね。

つねさんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

統率力、武勇、知略、政略全てにおいてトップレベル

桶狭間の戦いにおいて「小軍にして大敵を怖るることなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。」という名言を残した
戦のプロフェッショナルを育てる、兵農分離を始めた
商業的大名
本拠地は清州→小牧→岐阜→安土

尾張を統一し、兄弟間の熾烈な抗争を勝ち抜いた織田信長は、1560年(永禄3年)、駿河の「今川義元」と対峙し「桶狭間の戦い」を迎えます。兵力では今川勢に分がある状況で、織田信長は出陣する前に家臣を鼓舞するための敦盛(あつもり)を舞いました。

敦盛は、「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」という一節で有名です。人生の短さを喩えた舞を終えた織田信長は、「法螺貝を吹け、武器をよこせ」と言い、出陣。

主君が家臣の目の前で披露したこの鼓舞は多くの若い家臣を勇気付け、兵力差の上で劣勢であった織田信長軍は、今川義元の首を討ち取りました。

今川義元を下した織田信長は、美濃を平定したあとに「足利義昭」(室町幕府15代将軍)を擁して天下を取ることを目指します。そして、この時期に織田信長は、天下人になることを宣言したという逸話が信長公記に記されていました。

ある時、丹波国桑田郡穴太村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)の穴太城城主「赤沢義政」が織田信長に面会したとき、赤沢義政は織田信長にこう進言しました。「所有する鷹2羽のうち、いずれか1羽を信長様へ献上いたします」。すると織田信長は、「お気持ちは嬉しいが、いずれ私が天下を取るであろうから、それまで預けておく。大事に飼ってくれ」と返答しました。

織田信長が足利義昭を擁して上洛を開始したのは、1568年(永禄11年)のこと。そして、1575年(天正3年)に朝廷から「従三位権大納言兼右近衛大将」(じゅさんみごんだいなごんけんうこんえだいしょう)を任じられた織田信長は、事実上の「天下人」となりました。

鷹の寿命はおよそ11年。織田信長は宣言通りに、天下を取ったのです。

天下布武に向けていよいよ動き出した織田信長。1570年(元亀元年)に織田信長は、越前(現在の福井県)の「朝倉氏」征伐を開始しました。

京都から敦賀方面に侵攻し、越前中央部へ攻め込む予定でしたが、ここで近江の「浅井長政」が朝倉方に寝返ったという報告が入ります。浅井長政は、織田信長の妹「お市」(おいち)が輿入れした相手でした。

当初、浅井長政が寝返ったという報告を聞いても織田信長は信じませんでしたが、お市が織田信長に手紙を送ったことで、ようやく織田信長は、浅井長政の謀反が事実だと認めます。そして織田信長は、京都への撤退を余儀なくされました。幾多の戦を経て「朝倉義景」が足利義昭に和議を嘆願したことにより、両者の戦いは一時休戦することになったのです。

1571年(元亀2年)浅井・朝倉勢との休戦から1年後、織田信長は比叡山の「延暦寺」(現在の京都と滋賀の県境に位置する寺院)への攻撃を開始します。

比叡山に逃げ込んだ浅井・朝倉軍を匿ったのは、延暦寺の僧兵。以前から延暦寺の僧は、肉食や禁制であった女人を入山させるなど、京都の鎮守であるにもかかわらず仏門の道から外れ、勝手な振る舞いをしていました。

織田信長は熱心な仏教徒ではありませんでしたが、浅井・朝倉軍を匿ったことと併せて、延暦寺を敵とみなしたのです。

仏堂や神社を破壊・焼き尽くし、山下にいた老若男女の首を1人残らず刎ねていきます。比叡山には、数千もの死体がそこらじゅうに転がり、凄惨な光景が広がっていました。

浅井・朝倉軍を討伐した織田信長は、足利家と敵対する三好家と戦っていましたが、大坂本願寺が突如挙兵し、各地で一向一揆が勃発します。

織田信長は、本願寺と一向一揆の平定に追われることに。1574年(天正2年)には、伊勢長島(現在の三重県桑名市)で起こった「長島一向一揆」を鎮圧。この時、一揆勢は拠点に立てこもり、織田信長に助命を請いますが、織田信長はこれを拒否。「悪人たちは兵糧攻めにして、これまでの罪や悪行に対する鬱憤を晴らす」と述べ、風雨に紛れて逃げ出そうとした男女1,000人を捕らえて斬り殺します。

こうして織田信長は、各地の一揆を平定し、11年の歳月をかけて大坂本願寺を降伏させました。

延暦寺の焼き討ちや、一向一揆での織田信長の所業から、僧兵や一揆衆は織田信長のことを「第六天魔王」と呼ぶようになります。第六天魔王とは、仏道修行においての敵、すなわち「天魔」(てんま:人心を惑わす悪魔)のこと。僧兵や歯向かってきた人びとを容赦なく焼き討ちした織田信長の残虐さは、仏教徒にとってまさに天魔だったと言えます。

一方で、第六天魔王という呼び名に対して織田信長はまんざらでもなかったようです。延暦寺は、焼き討ちを受けたあと、仏門に入っていた「武田信玄」に庇護を求めており、武田信玄は非難の意をこめて織田信長に手紙を送っています。

この手紙では、武田信玄は自らを「天台座主沙門」(てんだいざすしゃもん:当時の日本仏教で最も強い権力を持っていた天台宗の代表)としたためており、これに対抗意識を燃やした織田信長は、手紙を返す際に「第六天の魔王信長」と記載したのです。

仏教の代表を自称した武田信玄に対して、仏教の敵を自称した織田信長。これ以上にない皮肉の効いた返しは、織田信長の度胸が据わった性格ぶりを示す逸話となっています。

1575年(天正3年)、織田信長は「長篠の戦い」で武田軍を相手に、戦場において日本史上初めて火縄銃を導入。結果は、織田信長の圧勝。武田軍を圧倒的な力で打ち倒した織田信長はその後、朝廷から「権大納言」、「右近衛大将」の官位を賜り、事実上の天下人となります。翌年の1576年(天正4年)には、琵琶湖の傍に「安土城」の築城を開始。そして、織田信長にとって幾度目かの試練がこの年から始まりました。

「第三次信長包囲網」と言われる、全国各地の大名らによる織田信長への侵攻が開始。京都を追放された足利将軍や、本願寺の僧兵をはじめ、越後国の上杉軍、中国地方の毛利軍、さらに家臣であった丹波国「波多野秀治」、但馬国「山名祐豊」(やまなすけとよ)らが相次いで反旗を翻します。

織田信長は、自身の家臣らを各地へ派遣し、次々と鎮圧。1570年(元亀元年)に浅井・朝倉軍による「第一次信長包囲網」から端を発した10年にも亘る「反信長連合軍」との戦いは、織田信長の重臣による裏切りと共に終焉を迎えます。

1582年(天正10年)6月、安土城から上洛した織田信長は「法華宗本門流」(ほっけしゅうほんもんりゅう)の大本山「本能寺」で、重臣「明智光秀」に襲撃されました。火が放たれた寺院の中で織田信長は自害。享年49歳。

エンドウ

エンドウさん(男性)

1位(100点)の評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

悪ガキなのに…

織田信長の青年時代。
悪ガキという感じの人でしたが、お嫁を迎えたり、誰かに仕えたりするときはガッツリ正装!かっこよかったり、村の人たちからも「あれはあのうつけものか??」「まさか」などと言われていたらしく、そのギャップに惚れてしまいました。

戦国時代オタクさんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

第六天魔王こと心優しき名主君

信長は設定が盛りに盛られて極悪なイメージが付いているが実はそんなことないというのが今の通説。
とはいえ、戦の強さはホンモノ!
当時、海道一の弓取りといういわばほぼ日本一という最強たる称号で名を馳せ、戦国時代でまず最初に天下取りに近かった存在だったであろう今川義元を桶狭間で倒したのは凄い!そこで付けた勢いのまま各地を征服できたが天下まではあと一歩……無念。

初瀬後基さんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

殺戮をただ好んでやっているだけなのか?

織田信長が残酷であるとか色々な意見が出ています。信長の悪事の代名詞といえば「比叡山焼き討ち」だとか「伊勢長島の一向一揆」などが上がると思いますが、近年では比叡山の焼き討ちは想像以上に火が燃え広がってしまったとか前述のどちらもは単に宗教が嫌いなだけではなく長く宗教が政治に口を出している時代を終わらせる政教分離のためにやったと言う説などがあります。また三方原の戦い当時信長は包囲網に苦しめられていて兵力が不足していたのでやむなく送ったとかさまざまな説があるため、信長は何らかしらの考えを持ってやっていると考えました。しかし大殺戮を行ったと言う事実で少々減点

天王寺口さんの評価

戦国武将最強ランキングでのコメント・口コミ

えええええええええええええええ??????!

あれ?なんで1位じゃないの?まぁ3位以内だからだけど、
信玄や謙信を恐れているが、最強だったぞ?
勢力を伸ばしまくってたぞ?
残酷な面もあるけど、たまに、すごく優しかったし、
めっちゃいい武将。好きな武将や最強な武将を聞かれたら、
信長様。あぁ、信長様…

三宅日向さんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

意外と保守的なのが知られていないが

身内に甘く何度も裏切られても懲りない性格は意外と憎めない
政治的にも擁立した義昭がバカすぎただけで、ちゃんと将軍らしいことをやっていれば足利幕府が潰れることも無かったくらいに幕臣としての立場をわきまえていた
ただ、あまりに合理的すぎて、当時の不合理な慣習が横行していた武士や坊主達には嫌われていたようだが

ベムさんの評価

戦国武将・大名ランキングでのコメント・口コミ

すべてをひっくるめて信長は一つの人間

人殺しすぎ
歴史ゲームでは強くなってるけど実際は勝家とか一益のほうが戦は優秀、自分の城の階段にお墓をおいている。
だけど家臣への配慮は一様してるし物事が伝わりにくい人であった今で言うとこのADHDみたいな感じ。
クズって言う人も言うけど僕は信長は善悪の区別はつかない人だと思う革新的な人だったからなのも理由の一つ
100点ではないけど[戦に負けすぎ]
長文すいません
見てくださりありがとうございました

アスノヨゾラ哨戒班さんの評価

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