武田勝頼の詳細情報
武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。 (引用元: Wikipedia)
武田勝頼がランクインしているランキング
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強すぎる武将
織田をはじめ大勢力に囲まれ、先代が裏切り行為を繰り返したことや経済破綻から厳しくなった。本人の見通しの甘さはあったが、長篠の戦いをせず撤収したとしてもジリ貧に陥った可能性が高く、多少の不利は承知していたと考える。
かなり有能な部類だが、信玄の跡を継ぐのは厳しかったということだろう。
としさんの評価
父の影に隠れた名将
彼の功績として、父・信玄が攻略を見送った高天神城の攻略や、織田領東美濃の明知城の攻略、織田・徳川と戦いながら北条領の上野掌握、上杉との同盟、そして長篠合戦後の武田家の建て直しが挙げられます。
上野侵攻を受けた北条氏政は織田信長に、「北条家滅亡の危機」という内容の書状を送っています。また、信長や上杉謙信は勝頼を「武勇に優れた将」と評価しています。徳川家康に関しては、長篠合戦の直前、信長に「援軍に来ないならば勝頼と手を結び、織田領に攻め込む」といった内容の書状を送ったと言われています。それほど勝頼の武勇に恐れを成していたと考えられます。
さらに勝頼が武田家の最大版図を築いたのは長篠合戦後の1580年です。しかしこれほどまでに武勇に優れた勝頼でも四方を敵に囲まれた状態での一門や親族の裏切りには為す術がなく、1582年3月に甲斐国天目山にて自刃してしまいました。
勝頼は織田や徳川、北条だけでなく、父・信玄の遺言や存在感、比べられる重圧に潰されてしまったも同然なのではないかと私は考えます。
茶さんの評価
負の遺産
勝頼は、普通に有能‼︎ただ信玄が上杉、徳川、織田と関係悪化させ、元々武田家臣団は、独立精神旺盛だったから滅亡は、避けられなかった。その中で10年ほども織田、徳川、上杉、北条と争えたのは、すごいとおもう。ただ御館の乱で景虎側についてればもうちょっと存命できたと思う。
ミナペンさんの評価
敵いすぎじゃない?
武田は北条と同盟を結んで、北条夫人が嫁いできた。けど御館の乱で勝頼は上杉景勝と同盟を結んだ。それに怒った北条は同盟を破棄。で、織田、徳川、北条が敵になったから敵いすぎかなと思います。
戦国時代大好き‼️さんの評価
家臣に裏切られても当然だ!
どの家臣の意見も全く聞かないで行動して、自分勝手な行動をして失敗したことにより、家臣に裏切られ、自殺したエピソードがあった。
武田勝頼は自分勝手で弱いので裏切られても当然です!
ゲストさんの評価
戦国最弱レベルの弱さ
自分勝手に物事を行い、味方する家臣は最終的に40人ほどとなった。
9年も武田が滅ぼされなかったのは尊いことである。
もっとふんだんに戦ってれば2年で滅ぼされていた。
ゲスト1さんの評価
家臣に見殺しにされた
長篠の戦いの時に有力家臣を無駄使いさせ、高天神城の戦いで家臣の救援に行かずに見殺しにされ、山県昌景・馬場信春がいなくなってからたった7年で滅ぼされた。戦国最弱レベルの武将に起こることが起こっているというほどほぼ全ての武将より劣っている。
ゲスト1さんの評価
武田家最盛期を築いた可哀想な武将
武田勝頼は信玄が死ぬ前に周りに敵を作りすぎたせいで負けた、批判してる人も多いけど、信玄だって村上義清に大敗してるやん、誰しも一度は
失敗するし信玄がしっかり穴山等に褒美を与えていれば裏切る人が大量
発生する事もなかった、勝頼は無能ではない、信玄より有能かもね。
信長ほどではないが勝頼は有能さんの評価