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今回は2010年代のカルト映画を10本選んでみました。
ランキング結果
1位劇場版 ミッフィー どうぶつえんで宝さがし
引用元: Amazon
BTTFは確かにサメ映画ブームを予言していたが...
2010年代密かに話題となったジャンルがある。それは《サメ映画》だ。
そして、他のメディアが語らないのであれば私が語ろうではないか。《サメ映画》についてを。『ジョーズ』の成功で、本作は何度かリメイクされていったのだが、だんだんと劣化していくこのシリーズに大衆はウンザリした。それから半世紀近く経ち、なんと再びサメ映画に熱が入った。テクノロジーの発達で、素人が簡単にCGを作れるようになり、Vtuber界にもサメを出現させられるようになった人類は、サメで物語ることの面白さに目覚めた。宇宙や砂浜からサメを召喚したり、キングギドラのようにサメの頭を合体させたり、竜巻とサメのマリアージュさせたりと様々な一発芸を魅せ、日本を中心に熱狂的なファンを増やしていった。また『バック・トゥ・ザ・フューチャー PartⅡ』に追いつけとばかりに『パニック・マーケット3D』という3Dサメ映画も登場し、時代の籠児となっていった。
その中でも伝説的な作品がある。それは『デビル・シャーク』だ。日本では2018年頃から密かに話題となっていたサメ映画です。2010年代のエド・ウッドだ!とまで囁かれたワースト・オブ・ワーストな作品だ。なんといっても、全編70分のうち、サメの登場する場面は1分にも満たない。そしてエンドロールが、ハリウッド超大作に匹敵する10分も設けられているのだ。果たしてサメは人々を襲ったのか?という疑問が残る中、嘔吐、エクソシスト、ギャルといった要素がとっ散らかっている本作は、目も当てられないほど酷いのだが、どういうことでしょう、鑑賞後の満足感は高い。いつまで経っても忘却の彼方に飛んでいかないのです。それは、本作が前衛的すぎてゴダールの映画を観ているような新鮮さを帯び、不朽の迷作としての立ち位置を確立させているからであろう。エンドロールで提示される、サメのぬいぐるみ購入シーンは、マーベル映画のエンドロールおまけ映像の実は虚無であることの皮肉とも捉えることができる。幾らでも深読みができる本作は、サメ映画界としてもアイドル的シンボルとして2020年代に入っても朽ちることなく輝いていることでしょう。
3位この空の花 長岡花火物語
引用元: Amazon
『この空の花 -長岡花火物語』(このそらのはな ながおかはなびものがたり)は、2012年4月7日に公開された大林宣彦監督の日本映画作品。1945年の長岡空襲とその後の長岡花火への流れを描いたセミドキュメンタリー映画である。また大林自身初めて全編デジタル撮影により製作した長編劇映画である。
言葉のドッヂボールが花火をぶち上げる!
日本を襲った東日本大震災は、世界中に大きな衝撃を与えた。しかし、あの震災の衝撃をアートという形でアーカイブするのは至難の技だ。未だに、あの震災の内面的恐怖を映像化した作品はほとんど現れないのだが、反戦映画を撮っていた大林宣彦が、圧倒的映像の洪水の中に震災で失われた多くの魂を忍ばせた。
老境に差し掛かった、映像の魔術師・大林宣彦は常に新しい映像技法を模索し、本作でデジタル処理に挑戦した。しかしながら、この挑戦は観る者の心を掴んで決して離さないものであった。
『ソーシャル・ネットワーク』が4,5時間に及ぶ物語を、早口で展開することで2時間に収めた。この作品では、会話が成立している。しかしながら、『この空の花 長岡花火物語』は2時間40分決して会話を止めることはない、会話は全て一方通行でまさしく言葉のドッヂボールを観ることとなる。
そこに、謎の一輪車の刺客、過去からやってきた画家・山下清、そしてハリボテのアニメーションでグチャグチャに合成される戦争の記憶と長岡花火の大団円が所狭しと、観客の瞼を一秒たりとも閉じさせまいと迫ってくる。
いくら目紛しい勢いで情報が流れる情報過多社会にいる我々ですら、全てを補足することは不可能である。鑑賞後、観たものは何故か滴る涙に驚く、そしてその正体を探ることで、自分の中の戦争と平和、災害と復興についての考えが定まってくる。2020年代に刀を突きつけられるか非常に怪しい大林宣彦監督渾身の遺言状である。
元カレボスラッシュに眼福
2010年代の映像革新は、次世代のベクトルを巡って放浪の旅となっていた。MCUやゴジラユニバースは、VFXと人間との垣根を無くし不気味の谷を超えようとした。VR技術の発達に伴い、作り込まれた世界の中でカメラを動かし、超現実を生み出す『ライオン・キング』なんて作品も登場した。
そんな技術の時代に、本作は敢えて虚構と現実の差を明確にすることによって、実写映画のコミック化に成功させた。従来の漫画原作ものは、漫画をいかにリアルに近づけるかという点に重きを置いていた。しかし、本作は、現実をいかにコミックに近づけていくかという正反対の方向を向いている。
確かにそれだけで言えば、1945年に『錨を上げて』で既に行われていたことだし、『スペース・ジャム』でカートゥーンと人間がバスケットボールする様を違和感なく描いているので2010年代を代表する作品とは言えないのかもしれない。ただ、この映画は漫画の世界に加え、《ゲームの世界》を融合させたところが画期的であった。
ひ弱な青年が、ボスラッシュのように現れる敵を、格闘技ゲームや音楽ゲームのテンポで蹴散らし、主人公の成長やアイテムゲットの場面ではゲーム音楽が流れる映画をゲームや漫画の世界にひきこんでいく手法は、後の『ピクセル』や『レディ・プレイヤー1』にも繋がった。
人々が映画と漫画、映画とゲームの融合を受け容れることとなったルーツがここにあるのだ。
5位ザ・マスター
ジョーカー以上に怖いホアキン・フェニックス
みんな大好き狂人ポール・トーマス・アンダーソンが噂通りサイエントロジーの映画を作るわけがなかった。彼が作り出したのは、相変わらずジョナサン・デミの『メルビンとハワード』への賛歌に載せて描くカリスマ、そしてサークルクラッシャーの苦悩だ。
サイエントロジーの暴露映画なんか俺の眼中にない、俺が作りたいのは俺流の『エルマー・ガントリー/魅せられた男』だと。魅力のオーラに覆われながらも、クズでどこ行っても組織を滅ぼしてしまう男フレディ・クエルの視点で、教祖でありながらも妻の操り人形であり、スランプであるランカスター・ドッドが彼の持つオーラに取り憑かれていく様を描く。
ホアキン・フェニックスは『容疑者、ホアキン・フェニックス』で自ら壊してしまったキャリアによって壊れてしまった自分を本作の中で存分にぶちまけている。何をしでかすか分からない彼、近づきたくない、彼であるが、彼が細めで捻くれた笑みを魅せると、彼に取り込まれそうになる。等身大のホアキン・フェニックスのマスター性を即興的にPTAはカメラに収めたのです。正直、『ジョーカー』の彼よりも数倍怖いです。
また、画面全体から漂う甘美な香りと、 ジョニー・グリーンウッドが奏でる官能な香りは、インターネットとは無縁な時代の物語であるにも関わらず2010年代のオンラインサロンや意識高い系が持つ空っぽな胡散臭さとそれによる崩壊を思わせるものがあり普遍的な価値を確立していると言えよう。
6位スプリング・ブレイカーズ
引用元: Amazon
制作年 | 2012年 |
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上映時間 | 93分 |
監督 | ハーモニー・コリン |
メインキャスト | セレーナ・ゴメス(フェイス)、ヴァネッサ・ハジェンズ(キャンディ)、アシュレイ・ベンソン(ブリット)、レイチェル・コリン(コティ)、ジェームズ・フランコ(エイリアン)ほか |
主題歌・挿入歌 | - |
公式サイト | - |
大学デビューの肖像
『スプリング・ブレイカーズ』は新生活間際の夏休み、ピチピチギャルがただただお祭り騒ぎし、壊れていく様を描いた虚無である。ビーチでワイワイガヤガヤ暴れまわり警察に捕まるものの、麻薬の売人・エイリアンに救われ彼の家に転がり込みまた遊びまくるのだが、段々と興ざめしていく。
これは、大学1年の時に毎日のように飲み会に明け暮れるが、3年になると自分の大学生活が空っぽなことに気づき、興ざめし現実に引き戻される感覚に等しい。
今の時代、スマホにはキラキラした情報が溢れ、娯楽も多様化している。社会全体がテーマパークなのだが、遊んでいるうちに、自分はただただ社会に弄ばれているだけで、何にも生産していないし、自分というアイデンティティを証明する何かは存在しない。何者でもない自分に幻滅するのだ。
そんな現代を取り巻く、幸福でありながら不幸であることへの不安をハーモニー・コリンは一本に凝縮させてみせたのです。
7位ウルフ・オブ・ウォールストリート
引用元: Amazon
制作年 | 2013年 |
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上映時間 | 179分 |
監督 | マーティン・スコセッシ |
メインキャスト | レオナルド・ディカプリオ(ジョーダン・ベルフォート)、ジョナ・ヒル(ドニー・エイゾフ)、マーゴット・ロビー(ナオミ)、マシュー・マコノヒー(マーク・ハンナ)、ジョン・ファブロー(マニー・リスキン)ほか |
主題歌・挿入歌 | - |
公式サイト | - |
Sell me this pen.に痺れる
『ソーシャル・ネットワーク』に始まり、2010年代のビジネス映画は情報過多なセリフの応酬がフォーマットとして存在した時代であった。そして、膨大なビジネス用語や複雑な取引に置いてけぼりにされてしまいそうなところを、第四の壁を破りジョークを交えることでグイグイと引き込んでいくテクニックを不動のものとしたのはマーティン・スコセッシであった。
スコセッシは『カジノ』や『グッド・フェローズ』の時代から、雄弁な語りの妙によって3時間近い内容でも全く苦痛に感じない物語を演出し続けてきた。(彼の2010年代最後の作品『アイリッシュマン』は3時間30分あるとのこと)
本作の場合、役者陣の面白いアイデアを次々と採用することで、1秒たりとも退屈させることなく、いかにしてジョーダン・ベルフォートが成り上がって転落したのかの一部始終を描ききった。
マシュー・マコノヒーが胸を叩きながら鼓舞させていく場面、"Sell me this pen."をジョーダン・ベルフォートのカリスマ性、ビジネスセンスの高さを象徴させるエピソードとして組み込んでいく様、そしてレオナルド・ディカプリオとジョナ・ヒルの映画史上もっとも脱力感に溢れたバトルシーン。全てがギラギラ魅力に満ち溢れていた。
そしてこの映画の成功はアダム・マッケイの『マネー・ショート 華麗なる大逆転』や『バイス』のビジネス/政治映画のエンタメ化へと発展していく。そしてこれらの運動はいい意味で、観客の難しいことに対する好奇心を刺激する結果となった。
余談だが、"Sell me this pen."ネタはなんと『男はつらいよ 拝啓車寅次郎様』で寅さんがやっていたりします。
LDHは娯楽映画を完璧に理解している件
映画が平和をもたらした。
映画好きなら誰しもが一度は思ったことのある問題解決の手法だ。2010年代、とあるシリーズが映画ファンと音楽ファンの間にある隔たりを破壊した。これはベルリンの壁崩壊さながらの吉報であった。
EXILEグループことLDHが総力挙げて完成させた『HiGH&LOW』シリーズは当初想定していたアイドルファンムービーの壁を超え、映画ファンに愛されたのです。本シリーズ前の映画ファンからみたLDHの印象は決して良くなかった。「怖い」という印象があった。私もその中の一人。高校時代苦手だった人がEXILEのファンだったこともあり偏見を抱いていた。
そして『HiGH&LOW』の公開が決まった時、ネットニュースにはLDHの人々のマネジメントが大変だったという映画製作者の声が上がっており期待していなかった。
しかしながら、LDHはジャニーズ以上に映画のことを考えていて、「面白い映画」を求めて徹底マーケティングを行っていた。時には河瀨直美のアート映画にも参加する積極性を魅せていた。
その集大成がシリーズ2作目(番外編入れたら3作目)の『HiGH&LOW THE MOVIE2』だ。本作はマーベル的、ユニバース戦略とアイドルビジネスのユニバースを結びつけ、前作以上に《個性》を強調することでハリウッドアクション映画顔負けの代物ができあがった。
画面全体にパルクール、カンフー、車にバイクといったあらゆる武器が飛び交い、カメラはその戦場の面白さを1mm足りとも失うまいと舐めるように駆け抜けていく。その疾走感からくる感動は、アクション映画に飢えた映画小僧を虜にするものがある。そして知的で狡猾な巨大組織に対して、USBの使い方すら分からない可能性がある脳筋集団が、それぞれの持つ力で団結していき立ち向かう様は、まさしくマーベルの精神そのもので心が熱くなります。
この映画は俳優の成長にも繋がっている。山下健二郎はチャラチャラした雰囲気ながらも後に『パンとバスと2度目のハツコイ』で魅力的なバス運転手を演じている。
ターミネーターさながらの圧倒的強さを魅せた小林直己はNetflix映画『アースクエイクバード』で官能的なカメラマンを好演。流暢な英語で、アリシア・ヴィキャンデルを翻弄する役を勝ち取った。
ここまでLDHが映画で成功を収めたのは、スタッフの映画愛だけでなくLDHファンの寛大な心も関係しているであろう。『ボヘミアン・ラプソディ』公開時には古参のQUEENファンが、新規ファンに嫌な顔をするという局面があった。また、『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』公開時には、映画ファンが色んな映画と比較し過度に盛り上げていく様をすみっコぐらしファンは苦々しく眺めていた。オタク独特の紹介したい欲の爆発は、冷静な人からすれば気持ち悪く思える。それは仕方ない。しかし、『HiGH&LOW』シリーズでは不思議とそのような不満の声が白熱炎上しなかった。これはどの文化にも大切な、来る者を拒まぬ精神がLDHファンの間にあったからだろう。そう感じてから、今まで毛嫌いしていてごめんなさいと懺悔する毎日であります。
『HiGH&LOW』シリーズは一つの壁を破壊した。
平和の象徴であった。
松山ケンイチそっくりさんがゆく!
音楽伝記映画は2010年代も沢山作られました。2010年代ベストの中でよく挙がる作品は『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』なのだが、私はロシアからやってきた不思議な作品『LETO』をオススメしたい。
本作はソ連アンダーグラウンドバンド《Кино(キノー)》を描いた作品でありながら、肝心な《Кино(キノー)》の楽曲は使われず、トーキング・ヘッズの『Psycho Killer』やイギー・ポップの『The Passenger』などを使ってミュージカルに仕立てあげている。おまけに主人公であるヴィクトル・ツォイはカザフスタン出身の朝鮮人と一応、朝鮮の血は流れているものの韓国人俳優ユ・テオが演じている異色っぷり。しかも、これが全然ヴィクトル・ツォイに似ておらず、どちらかといえばロン毛になった松山ケンイチなのだ。つまり、これは伝記映画と魅せかけて普遍的な音楽青春映画を撮ろうとした訳だ。
そして、忘れられがちだが、音楽は社会や大人に対する反抗の文化だ。フォークもロックもジャズも、ヒップホップも文化で社会と対峙している側面がある。だから音楽映画は保守的なものを壊す破壊的なものでないといけないと、異次元の映像描写で観客に説教をはじめます。
音楽が流れると、落書きが、画面のフォーマットを超えてぐちゃぐちゃにかき乱す。二画面、パートカラーは当たり前。スクリーンの中に人が飛び込み、過去のノスタルジーに青春映画特有の甘酸っぱさを見出そうとする。
『ボヘミアン・ラプソディ』が惜しい映画だったのには、こういった革命的描写がなかったことだと教えてくれました。ライブ・エイドのシーンゴリ押しじゃ弱いぞ。
10位ブラ! ブラ! ブラ! 胸いっぱいの愛を/ブラ物語
引用元: Amazon
シンデレラの靴がブラジャーに!!
ドイツ人の監督がアゼルバイジャンで、ユーゴスラヴィア、スペイン人、フランス人、タタールスタン人、ルーマニア人等が画面を縦横無尽に駆け回るサイレント映画。グローバル化グローバル化と言いつつも、世界は国籍/人種で断絶してしまっている中、自然体で多国籍映画が作られた。
シンデレラの靴をブラジャーに変えた話という出オチ感満載な作品ながらも、サイレント映画時代のショットの切り返しによるスリルの演出、そしてドニ・ラヴァンの得意技であるグニャっとした身体的動きによる面白さが映画全体に行き渡り映画観賞が持つ多幸感を最大限に引き延ばしている。
そして、特記すべきは物語の方向である。ブラジャーの持ち主を探して旅する運転手は王子様ではなくプリンセスだったのです。孤独で退屈な人生を歩んできた運転手は、この冒険を通じて孤独と退屈さが癒えてくる。その癒しの正体に監督の鋭さを感じました。
2010年代は、原点回帰と言わんばかりにサイレント映画が定期的に作られている。『ブランカニエベス』といった傑作映画もあれば、『アーティスト』のように薄っぺらい映画愛とノリすら付けずに並べたクラシック映画のサンプリングだけでアカデミー賞作品賞、監督賞をはじめ5部門受賞した作品もありましたが、いや『ブラ!ブラ!ブラ! 胸いっぱいの愛を』こそが最強の2010年代サイレント映画である。
熊が飼育していたのは、北極熊だった...
子ども向けアニメーションや教育番組の製作者は、物心が付く前の子どもに近い柔軟性を求められる。四角い頭ではなく、丸い頭で自由自在なファンタジー世界を紡ぎ出す必要があるのだ。
それだけにシネフィルが喜びがちな《第四の壁》を破る演出は、もはや定石となっているし、劇場がマサラスタイルになることも想定となっている。
日本の場合、『アンパンマン』シリーズでは自分探しや産業廃棄物問題など、大人もしんみりくるハードコアなネタが挿入されたりするのだが、そんな子ども映画界で最も珍品だったのは『劇場版ミッフィー どうぶつえんで宝さがし』だ。
製作者は丸い頭を通り越してメルトダウンしてしまっている。その狂気の世界は多くの保護者を困惑の渦へ突き落としました。
ミッフィーファン、うさぎファンとして観てもこれはシュールだ。まず、動物の世界において《動物園》は存在できるのかという問題がたち憚る。そして、開始早々犬のスナッフィーが入園を断られる異常事態が発生。
『猿の惑星』のオマージュだろうか?あるいは白人至上主義に対する反発、ある種のブラック・スプロイテーションなのか、黒熊が園長を勤めるこの動物園にはホッキョクグマが飼育されているのだ。
そして園児の好奇心を掻き立てるために、動物当てクイズが展開されるのだが、その答えは地球上に存在しないであろう動物だったりする。
デヴィッド・リンチも真っ青な混沌は2010年を代表とする迷作であることは間違いない。