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中国大返しを進言した男
播磨国の守護小寺氏の家臣に過ぎませんでした。しかし、頭脳明晰で織田信長、豊臣秀吉に仕えてからは、軍師としての能力を発揮する。
三木城合戦において食糧補給手段を絶たせる兵糧攻めという方法を考え、豊臣秀吉に提案し、攻略したと伝えられています。備中高松城攻略の際には、地形を見て水攻めが適切であることを豊臣秀吉に提案するなど、知将ぶりをいかんなく発揮しました。毛利軍との戦いでも、兵糧攻め「鳥取の渇殺し」(かつえごろし)を行ない、鳥取城攻略。秀吉に中国大返しを進言し、毛利氏との休戦講和を進言しました。
最終的には豊前国中津(現在の福岡県北部)12万石の大名へと昇り詰めたのです。
3位太原雪斎
知略、政略共にトップクラス
今川義元に仕えた重臣です。禅僧だった太原雪斎は、出家していた今川義元の教育係を務め、今川義元が当主となってからも軍師として今川家に仕えます。
また今川義元が三河国の松平家を従属させ、人質として引き取った「竹千代」(のちの徳川家康)の教育係も務めていたと言われています。
4位真田幸隆
毛利元就並の謀略のスペシャリスト
もともと信濃東部に住んでいた小豪族の一武将です。しかし甲斐(かい:現在の山梨県)の「武田信玄」に仕えてから大出世し、最終的には「武田二十四将」(武田家を代表する名将)に数えられるまでになりました。そんな真田幸隆が最も得意とした戦法は、「謀略」(ぼうりゃく)。謀略とは、平時からあの手この手で敵方に入り込んで様々な工作を行うこと。これによって、いざというときに戦わずして勝つ。これぞ、戦国を生き抜いた真田幸隆流の必勝法でした。
岩櫃城はこれまでのどの城よりも攻略が難しいと判断した真田幸隆は、斎藤氏との和睦を提案します。しかし、もちろんこれは謀略。和睦により戦いが収まると、今度は斎藤憲広の一族や家臣に取り入って、彼らを真田方のスパイにしてしまいます。そしてある夜、スパイが城の内側から火を放ち、同時に一斉に攻撃を仕掛け、あっさりと岩櫃城攻略に成功。以降、岩櫃城は真田家の重要拠点となりました。しかし岩櫃から北にわずか数キロの「嵩山城」(たけやまじょう:群馬県中之条町)では、斎藤憲広の子「城虎丸」(じょうこまる)が虎視眈々と反撃のチャンスを狙っていました。156
5位片倉景綱
頭の回転が速く決断力にも優れていたため、伊達政宗のピンチを何度も救い信頼されました
「片倉小十郎景綱」(かたくらこじゅうろうかげつな)は、「仙台藩」(現在の宮城県仙台市)初代藩主「伊達政宗」の重臣で、白石城(現在の宮城県白石市)の城主です。頭の回転が速く決断力にも優れていたため、伊達政宗のピンチを何度も救い信頼されました。伊達政宗からはもちろん、天下を取った「豊臣秀吉」や「徳川家康」からも高く評価された。
6位直江兼続
直江兼続の見事な退却戦
越後国の戦国武将上杉謙信と上杉景勝に仕えた家臣です。特徴のある「愛」の文字が付いた兜を被り、主君・上杉景勝を何度も助けて勝利に導くなど、軍事・治政の両面で知将として知られています。
1600年(慶長5年)4月、上杉景勝の前に会津国を治めていた堀秀治が、上杉家に謀反の疑いありと徳川家康に報告。このとき直江兼続が徳川家康に送った手紙が、有名な直江状です。要約すると「こちらに謀反の心など全くないのに、つまらない讒言(ざんげん:相手を陥れるための悪口)を信じる方がどうかしている」という内容でした。
徳川家康は、明らかな挑発であると激怒して、上杉家に対して会津征伐を開始。これをチャンスと見た石田三成達豊臣方の武将が蜂起したことが、関ヶ原の戦いの引き金になったのです。会津国に向かった徳川家康軍ですが、石田三成挙兵の知らせを聞くと、すぐにUターン。このとき、直江兼続は上杉景勝に「今こそ追いかけて家康を討たれよ」と進言します。しかし上杉景勝は「ここで家康公を攻めれば、(ともに五大老に選んだ)太閤殿下の命令にそむくことになる」とこれを拒否。直江兼続は徳川家康の追討を断念しま
7位山本勘助
キツツキ戦法
武田信玄の近くで仕えていた山本勘助は、「私に50騎の兵をお預けいただければ、この戦いに勝ってみせましょう」と宣言。兵と共に敵陣に乗り込み「日取りでは武田軍の勝ちでござるぞ!」と大声で村上軍を挑発しました。
村上軍が追いかけると、態勢を立て直した武田本隊が村上軍を返り討ちにします。山本勘助の作戦が成功したことと、大声の鼓舞によって武田軍の士気は大いに高まりました。こうして敵はじりじりと後退し、武田信玄は一命を取り留めます。
このとき、上杉謙信は海津城を攻め落とすため、城の西にある小高い妻女山(さいじょさん)に布陣しました。山本勘助は「明朝、我が軍20,000のうち12,000で妻女山を攻め、山を下りた上杉軍を残りの兵と共にはさみうちにする」という作戦を進言。
川中島の戦いにおいて
これは、キツツキが木をつついて虫が出てきたところを食べるという話に基づいて「キツツキ戦法」と呼ばれますが、甲陽軍鑑にその名はありません。川中島の激戦が語り継がれるなかで、その名が自然に発生したものと思われます。
8位島左近
「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」
そのあと、次の天下人の座をめぐり、明智光秀と「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの[豊臣秀吉])の間で戦が勃発。明智光秀は、戦場の近くにある「洞ヶ峠」(ほらがとうげ:京都府八幡市と大阪府枚方市の境に位置する峠)に陣を敷いていた筒井順慶に対して、再三の応援要請を出します。しかし、筒井順慶は一歩も動きません。これは「筒井家」に仕える軍師「島左近」が、明智光秀の負けを見越して、「今は動くべきではありません」と指示したからだと言われているのです。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が病に倒れます。このときから、次の天下人を目指して活動を開始したのが「徳川家康」でした。
これを知った島左近は、「このままでは、いつか徳川家康が天下を取る。そうなれば、豊臣秀吉にもっとも可愛がられていた上様[石田三成]が、真っ先に殺される。しかし徳川家康は、上様がまともに戦って勝てる相手ではない。どうしたものか」と危機感を募らせます。
そこで島左近は、密かに徳川家康の暗殺計画を立て、豊臣秀吉が没した翌日、その実行の許可を主君・石田三成に求めたのです。しかし石田
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神鉄恵比寿駅で降りて20分程でお墓に到着です
羽柴秀吉の軍師「両兵衛」のひとり竹中半兵衛。
「劉邦」「張良」「諸葛亮孔明」ゆかりの兵法書を読破するなど、学問に長けていました。
斎藤龍興に仕えていた時、織田信長に対して敵が通ると予想される場所にあらかじめ伏兵を仕込ませて置き、敵兵が通り過ぎるのを待って背をむけたところを全方位から攻めると言う十面埋伏陣を駆使し追い払いました。
これも斎藤龍興に仕えていた時、人質として稲葉山城にいた弟の竹中久作を見舞いに来たと口実を設け、僅か17もしくは16人の手勢で稲葉山城を奪取。待機していた安藤守就の2000人を擁する軍に合図し、安藤軍が攻めてきたことで斎藤龍興はどうにも出来なくなってしまいました。斎藤龍興は少人数に占拠されてしまったのです。これを聞いた織田信長は半兵衛に一目置き、美濃国の半分を条件に稲葉山城を譲渡するよう交渉しますが、竹中半兵衛は拒否しました。
姉川の戦いでは誘降によって浅井朝倉軍の兵を削ぎます。
姉川の戦い、長篠の戦いでは相手の誘導作戦にも動じず鋭い洞察力で凌いでいます。
極めつけは織田信長の命令で黒田官兵衛が幽閉されたときに息子の黒田長政を殺害する命令を受けて竹中半兵衛が一人でかくまいました。
など名軍師としての数々の逸話がありました。さらに人情深い人間でもあったことが伺えます。
ここに半兵衛の遺骨が眠っていると考えると感慨深いモノがありますね。