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1位姫路城
2位熊本城
別称銀杏城
別称銀杏城
御幸橋を渡り、わくわく座券売所で入城券を購入。南口券売所から入城し、特別公開南口へ→数寄屋丸二階御広間→二様の石垣→闇り通路の順に巡る。逆の南側には連続枡形→長塀→東竹の丸の重要文化財櫓群が観られます。そして、大天守へ...
まるで熊本をイメージしたかのような黒が目立つ五重の大天守。小天守も良かったが大天守は圧巻でした。しかも夕方だったので丁度大天守を太陽が照らしてくれていたのも良い感じだった。
内部に入る。中は車椅子の方でも天守閣まで上がれるようにエレベーターがありました。入る際に加藤家の家紋である蛇の目紋と九曜紋が出迎えてくれました。
天守内はまるで博物館のように暗くしていて、綺麗なフロアでした。
櫓と天守の破風の違い
天守軸組み模型
朝鮮の屋根瓦
細川忠利の書状案
細川忠利自筆書状
鯱瓦
襖絵
など様々な資料があり、勉強になりました
震災の影響で被災した熊本城が復活し、有名人が「おかえり」の言葉と共にサインを描いて飾って有りました。
天守閣から見下ろした町並みは壮大でした。宇土櫓は未だ修復中で修復したら再び見に行きたいですね
3位松山城
数少ない現存天守のある城
数少ない現存天守のある城
天守は3層と低いものの立派。
城郭は広く、山城に区別されることもある平山城。
松山城山ロープウェイ東雲口駅舎からリフトに乗って6分程で長者ケ平へ到着
隠門続櫓を通り、隠門を通り、筒井門を通り、太鼓門、太鼓門南都櫓、太鼓門北続櫓、西塀、巽櫓を拝見し、井戸を観て、馬具櫓を観ました。
その辺りから西日に照らされた松山市を撮影するのも、天守に向けて撮影するのも、よしあきくんから撮影するのも絶景です。
チケットを見せて本丸広場へ入城。一の門を通り、ニの門を通り、三の門、三の門南櫓を通ります。筋鉄門をくぐると層塔型のど真ん中に出ます。敵がいれば四方から見られている感覚に陥り、なかなか物々しいですね。
その後現存天守である松山城、天守閣へ...
胴具足、松平定行の挨拶状、兜、加藤嘉明の請取書、足立重信の風卓郡室内村への年貢高調書、馬具、加藤嘉明沙汰状、日本刀(和泉大緣藤原國輝)、久松家伝来の槍、下がり藤(加藤家)、蛇の目(加藤家)、左三つ巴(蒲生家)、三つ葉葵紋(松平家)、星梅鉢(久松家)など様々な素晴らしい歴史的書物や武具、資料が見られます
4位宇和島城
南海の伊達9代の居城。現存天守
南海の伊達9代の居城。現存天守
現存天守
中々宇和島は行けないですが、行って良かったと思える程素晴らしい木造現存天守でした。
児島惟謙先生の銅像を拝見して、宇和島城入城伊達政宗の長男、秀宗が入城後、明治を迎えるまで南海の伊達9代の居城です。
国が定める重要文化財に指定されている天守は、宇和島伊達家2代藩主の宗利が寛文6(1666)年頃に建築したものです。かつて同所には、築城の名手として有名な藤堂高虎が慶長6(1601)年に建築した天守がありましたが、天守台の石垣を含めて宗利により全面的に建て直されました。
高虎の宇和島城は3重3階建てで、入母屋のある望楼型の下見板張で、宗利の宇和島城は3重3階建てで層塔型で白漆喰総塗籠と違いがあります。
上がり立門から入り、式部丸を通り煙硝櫓を観て、代右衛門丸矢倉、南角矢倉を見上げながら、長門丸門まで歩く。雷門を通り、城番屋敷を横目に進んで御書物矢倉を観ながら、三の門を通り、北角矢倉を観ながらニの門を通る。二の丸に到着。櫛型門(一の門)をくぐれば本丸に到着。天守は千鳥破風、唐破風、軒唐破風が観られ天辺には鯱が牛の角のように装飾されていて宇和島らしい威厳がありました。
5位黒井城
豪勇をうたわれ、丹波の赤鬼と恐れられた赤井直正が城主です
豪勇をうたわれ、丹波の赤鬼と恐れられた赤井直正が城主で、戦国時代の丹波を代表する山城です。赤井直正は自らを悪右衛門と名乗り、近隣の有力武将を従え、奥丹波三郡(氷上郡、天田郡、何鹿郡)を領し、また度々但馬へ侵攻を続けました。
天下布武を目指す織田信長が明智光秀に丹波平定を命じると、この黒井城でも明智の大軍と黒井勢との間に、二度に渡る激しい攻防戦が繰り広げられました。苛烈な戦国時代の遺構を山中いたるところに残す黒井城跡は、貴重な戦国の城として国の史跡に指定されています。
興禅寺前の駐車場に停めて黒井城址へ向かいます。
興禅寺から黒井城跡がかすかに見える。太鼓の段跡からの景色が良くて、三の丸の石垣、二の丸の石垣も丁寧に積み上げられていて素晴らしく本丸、二の丸、三の丸共に平坦で動き易い曲輪となっています。本丸からの景色は360度見渡せて絶景ですし、かすかに明智光秀の居城、金山城も見られました。冬の晴れ間に来て良かったと思える景色でした。素晴らしかった。
6位金山城址
波多野秀治の陣取る八上城と、赤井氏の陣取る黒井城の連携を分断するよう明智光秀が拠点とした山。絶景でした
波多野秀治の陣取る八上城と、赤井氏の陣取る黒井城の連携を分断するよう明智光秀が拠点とした山。絶景でした
波多野秀治の陣取る八上城と、赤井氏の陣取る黒井城の連携を分断するよう明智光秀が拠点とした山。
金山登山者用駐車スペースに停めて→伊能忠敬笹山領測量の道の石碑→追入神社に寄ってから→金山登山口へ→鳥居をくぐり→登山用の門があるのでしっかり閉めて進みます→頂上に向けて1000m登ります→園林寺跡地を通り→金山城馬場跡→金山城頂上到着。
標高537メートル。
金山城址へ...頂上からは三尾山や黒井城址や小富士や向山や多紀連山や八上城址などの有名な山々が360度見渡せます。
頂上にはベンチがあったので昼食休憩。作ってきたおにぎり(昆布握り、ふりかけ握り、おかか握り)を食べました。明智光秀もここで昼夜食事をしていたと考えると感慨深いモノがありました。
→そして鬼の架け橋へ→どうやってあんな大きな岩が引っかかっているのか不思議でなりません→そこから下山→せっかくなので巨大な「鬼の落し岩」を観て下山。この岩はだいぶ遠回りしないと観れません。
7位八上城址
後波多野氏の居城
多紀郡を支配した波多野氏の5代にわたる居城である。初代清秀は、応仁の乱の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡をあたえられ八上へ入る。その後波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永7年に管領細川高国を放逐、天文7年に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間には三好長慶や松永久秀と戦いを繰り広げる。
波多野氏はまず奥谷城(蕪丸)を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るため支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。
天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。光秀は八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。天正7年6月1年にわたる籠城戦の末八上城は落城し、秀治ら兄弟三人は安土城下に移され落命する。
落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦いによって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大坂城を包囲するため、慶長13年に江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は百年余りにわたる歴史を終える。
8位三尾城址
黒井城主の赤井直正の弟の赤井幸家が築いた城です。
黒井城主の赤井直正の弟の赤井幸家が築いた城です。 明智光秀が黒井城を攻めた時に幸家は明智方として出陣していた波多野勢と示し合わせて、三尾城址を出撃して明智軍を背後から攻撃して敗走させました。
10位元離宮二条城
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代に造営された日本の城である。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。また、後の近代においては大正天皇即位の儀式である即位礼の饗宴場として使用された場所となった。
11位三草山城址
義経率いる源氏が小松資盛と戦い戦勝した三草合戦の城址でもあります。頂上は風も強く粉雪が降る中でも爽快でした。
義経率いる源氏が小松資盛と戦い戦勝した三草合戦の城址でもあります。頂上は風も強く粉雪が降る中でも爽快でした。
標高423m
そこからの眺望最高。六甲山系、雄岡山、雌岡山や明石海峡大橋、瀬戸大橋、東条湖、千ヶ峰など180度見渡せます。源義経率いる源氏が小松資盛と戦い戦勝した三草合戦の城址でもあります。頂上は風も強く粉雪が降る中でも爽快でした。
狼岩、天狗岩は厳かです。
白鷺城
白鷺城
平城のようで、平山城に定められる
当時の城郭建築の良い所を全て備えた城
第二次世界大戦の空襲を逃れることは出来ないと思われたが、黒い幕を張って難を逃れた数少ない現存天守である。外堀、天守閣、城郭の大きさ、スケールが段違い。天守、城自体の歴史的価値が他の城とは違う。文句無しの1位でしょう
入城料・大人1000円、小人300円
14:20に入城しました
菱の門→三国堀→西の丸長局→はの門→にの門→姥ヶ石→大天守(刑部神社)→備前門→お菊井戸の順に巡りました
その中で百間廊下は想像していた以上に長かったし、割と涼しかったです。白鷺城の歴史が1から勉強出来て良かったです。千姫の事が詳しく書かれていて、輿入れ先の豊臣秀頼は大坂城で自害し、息子の幸千代は3歳の頃病で亡くなり、夫の本多忠刻も31歳の若さで病に倒れました。波瀾万丈過ぎて、辛い人生だったんだなと感じました。
近くで見た大天守は圧巻、石垣も一番高く積み上げられていますし、おそらく姫路市内で一番高い建物、そして白鷺城と言われるように白さが美しい。天守内は6階立てで紋様瓦がいくつも展示されていて想像していたよりもはるかに大きくてビックリしました。天守へ登る階段は急で1~6階まで一気に上がるなんて大変だろうなと感じました。大天守の天辺から見た姫路の景色はキレイで、男山、男山天満宮などが見られて絶景でした。晴れていたらもっとキレイだったろうなと少し残念ではありました。
17:00前に退城しました。感動、驚きの連続で2時間半があっという間でした。