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ゲスト家康さんの「戦国武将最強ランキング」

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更新日: 2023/05/13

ゲスト家康

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ランキング結果

1徳川家康

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。

戦国無双

家康の強さは、一つ目は並外れた頭脳です。大坂の陣では大阪城の鉄壁さに苦戦したが、大砲を撃つという戦国のどんな城も落とすことができる策略を思いつきました。まるでこれまでの常識をひっくり返すようです。若い頃も信長は家康に恐れていて、今川家の当主よりもその家臣の家康の方が大きくうつってそうです。また、関ヶ原の戦いで小早川軍が直ぐに動かなかった時も怒って終わりではなく、空鉄炮を撃ち、使者を何度も送り込みました。
二つ目は江戸幕府の支配体制で、前には誰も思いつかなかった、大名を貧乏にさせ、力を持たせないようにする政策を使いました。また、他の将軍とは違い、先進した欧州との貿易を積極的に行っていて、それは外国人まで家臣にしているほど。
他に、家康は寺部城攻め・桶狭間の戦いで丸根砦などを攻める時などでなかなかの武勇も発揮しました。
家康は信長や秀吉とは違い、我慢強く、無謀なところがほとんどありません。
三方原の戦いでの失敗から学んで強くなってきたのが家康ですから、三方原の戦いだけで家康の強さを決めるのは違うと思います。そして、上田合戦は2度とも、家康自身は参加していません。総大将も家康ではありません

2北条氏康

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。

武力と策略の天才

河越夜戦の、嘘の降伏をして、敵を油断させる作戦はすごい。
さらに、上杉謙信や武田信玄の大軍を関東から退けたほど。上杉憲政に関しては、他の大名のところへ逃げてきたほど。
そして、政治にも力を入れている。

2伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

奥州の覇者、独眼竜

仙台藩を発展させ、強力な藩にしたり、片目が見えないからといって弱く、あまり頼りにならないのではないことを示せた武将です。
周囲の大名には堂々と戦を仕掛け、勝ち戦を続けて勢力を広げ、度胸は満点で、武勇も真田十勇士のいる真田信繁と渡り合えたほど。しかし関白秀吉には従い、関ヶ原の戦いの時は家康についたので伊達家の未来を守れる武将でもあることがいえます。
また、罪を疑われたときに相手の趣味(性格)に合わせたことをして罰を最小限にとどめた天才でもある。

3立花宗茂

立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

西軍の中で格別

西軍の中で雄一、元の領地に返り咲いた武将で、島津の大軍から城を守りきり、徳川家康にも恐れられました。

4鍋島直茂

鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。

九州の秀才

大友には立花・高橋、島津には義弘・家久など九州には強者がどんどん立ち上がっていき、九州統一を争っていた時に、九州の智略王として龍造寺勢力が生き残れるようにし、秀吉や家康にも実力を認められたのが鍋島直茂である。今山の戦いの夜襲作戦で12倍もの兵力の大友軍を破った天才。

5藤堂高虎

藤堂高虎

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は、石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

信頼された城造りの名人

高虎は城造りの名人な上に、主君の家康に「高虎が裏切ろうとしている」と言っても、家康は信じなかったというエピソードがあり、それほど信頼されています。

6山本勘助

山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。

できることはこなしている

片足・片腕はないけれど、頭脳を働かせ、できることをきっちりこなしていて、信玄に才能を認められた。

7上杉謙信

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。

軍神だけど弱いところも

第4次川中島の戦いで、でる煙が多かったことから信玄の作戦を見抜き、信玄の本隊を追い詰めた。軍の数が両軍とも互角だったら信玄は死んでいたかもしれない。武田信繁や山本勘助などの優秀な家臣も倒した。
そして、手取川の戦いでも、秀吉や柴田などの織田の有力武将の大軍にも大勝した。
ただ、北条氏康との戦いについては失敗に終わった。最終的には関東勢を敵に回した。さらに、家臣の領地争いによって謙信が不利になったりと、弱いところもある。

8明智光秀

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされる。

強力な家臣

光秀は、金ヶ崎の戦いで浅井・朝倉軍に殺される可能性があった信長を守りきるなど、合戦で手柄を立てていた。
それに、朝廷や祖父などとの話し合いも上手にこなした。
山﨑の戦いでの敗戦もあるが、光秀は強力な家臣だと思う。

武田の副将軍

信玄や信虎、武田の家臣団から信頼され、武田軍のまとめ役となり、さらに副将軍になった。敵の上杉謙信も信繁の死を惜しんだ。

10真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

そこまで強くない

夏の陣では最初の徳川に突撃したのは毛利勝永のうえに,真田十勇士による活躍が大きすぎだった。家康を怖がらせたのは信繁ではなく、真田十勇士だったのである。堀埋め作戦に巻き返せる強い作戦が思いつかず、ただ突撃をするだけだったので討ち取られたということで信繁はそこまで強くないと思います。
まあ、真田丸で前田利長などの軍隊を追い詰めたのは確かだからある程度の強さはあると思いますが。

普通

大内義隆に信頼され、義隆を自殺に追い込む力もあった。
そして、尼子晴久の攻撃も防いだ。
しかし、毛利元就の作戦にはまり、自殺した。

12大谷吉継

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

弱いけど言っていることだけは正しい

小早川秀秋軍に敗れたところは弱いと思う。
ただ、三成に、家康との対立を止めるように言ったことは正しかった。
でも三成軍についてしまった。

13織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

世界1過大評価されている武将

金ヶ崎の戦いでは自分から無茶なことをして家臣を置き去りにして自分だけ敗走し、姉川の戦いでは兵の少ない浅井長政に圧倒されて本陣にまで迫られ、和歌川の戦いでは自分の50分の1の兵しかいない雑賀衆にボロ負けた。
いずれも優秀家臣や同盟相手の手助けがないと生き残れずに、信長が討ち討ち取られていた可能性が極端に高い戦であり、信長は今までの活躍のほとんどがが黒田・蒲生・丹波・柴田・竹中・明智・徳川などの家臣団・同盟相手の力だけで成り立っているどころか、勢力維持をすることすらその武将たちの力だけだという。それに、その頼みの綱の家臣も信長の振る舞いのせいで松永・荒木・明智などと勇将が去って行く。信長は弱すぎる。過大評価されすぎである

政治が最悪の人

美濃の政治に目を向けず、遊んでばかりいたので、美濃三人衆ですら、立興に簡単に寝返った。竹中半兵衛にたった16人で城を乗っ取られ、失望された。

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