山本勘助の詳細情報
山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 (引用元: Wikipedia)
山本勘助がランクインしているランキング
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キツツキ戦法
武田信玄の近くで仕えていた山本勘助は、「私に50騎の兵をお預けいただければ、この戦いに勝ってみせましょう」と宣言。兵と共に敵陣に乗り込み「日取りでは武田軍の勝ちでござるぞ!」と大声で村上軍を挑発しました。
村上軍が追いかけると、態勢を立て直した武田本隊が村上軍を返り討ちにします。山本勘助の作戦が成功したことと、大声の鼓舞によって武田軍の士気は大いに高まりました。こうして敵はじりじりと後退し、武田信玄は一命を取り留めます。
このとき、上杉謙信は海津城を攻め落とすため、城の西にある小高い妻女山(さいじょさん)に布陣しました。山本勘助は「明朝、我が軍20,000のうち12,000で妻女山を攻め、山を下りた上杉軍を残りの兵と共にはさみうちにする」という作戦を進言。
川中島の戦いにおいて
これは、キツツキが木をつついて虫が出てきたところを食べるという話に基づいて「キツツキ戦法」と呼ばれますが、甲陽軍鑑にその名はありません。川中島の激戦が語り継がれるなかで、その名が自然に発生したものと思われます。
片目が見えないのに戦に出ることはすごい!
政宗のところに仕えていたら、意気投合して良い家臣となっていたかも!僕は右耳が小耳症で手術しましたが、補聴器をつけても聞こえない(まだ試着だけ)ので右から来たら声が聞こえないのでやられるかも、、、という恐怖心もあると思う。それを、乗り越えて全力で戦った。家のためかもしれないけど人生を懸けて戦に挑んだのはすごい。
スプラとマリカ大好きかのたんさんの評価
啄木鳥戦法
大河ドラマで主人公になった事でも有名な人物ですが、武田信玄の裏方として武田軍をサポートした影の功労者とも言える存在の人物。中でも川中島の戦いは有名で、最後は上杉軍に見破られてしまいますが、山本勘助が一番、輝いていた戦だと思う。
BLUE THUNDERさん(男性・40代)
1位(100点)の評価
啄木鳥戦法!
山本勘助は川中島の戦いでは、啄木鳥戦法を使って上杉謙信を倒そうとしたけど、それを上杉謙信に見破られ、失敗しちゃう。だけど、謙信以外の武将だったら啄木鳥戦法を見破られていないと思う。
戦国武将大好きさんの評価
武田軍を引っ張る 山本勘助
山本勘助は戦国時代、今川氏の元へゆき、家臣になりたいと頼んだが、今川氏は片目が見えないことと、手足が不自由だったことから役に立たないと判断し、追い出してしまったのだ…
しかし、武田氏が山本勘助を自ら家臣にして、大成功したのだ。
山本勘助は兵士達を指揮し、武田軍を、何度も勝利に導いた。だが…川中島の戦い(第四次)の上杉謙信からの攻撃が大きく、武田軍が負けそうになった。そこで武田信繁と山本勘助は必死に戦って、引き分けにまで、導いた。激しい攻撃を何度も受けていた信繁と勘助は戦死した。
あんちゃんさん
3位(85点)の評価