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家臣の武将がだーいすきさんの「軍師ランキング」

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更新日: 2024/02/25

家臣の武将がだーいすき

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ランキング結果

1真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

知略だけでなく武勇も高い!

真田幸村は大坂の陣で大活躍をした武将。
冬の陣の真田丸の戦いでは前田利常、松平忠直、井伊直孝を、
夏の陣の道明寺の戦いでは伊達政宗を、
天王口の戦い(幸村が突撃した戦い)では毛利勝永と協力して、
秋田実季、松平忠直、水野勝成、本多忠朝、榊原直勝、保科正光、
諏訪忠恒、小笠原秀政を破っています。
また、家康を自害寸前まで追い詰めた武勇も高い武将です。
知略では、父:昌幸に似ているところもあります。
最後まで豊臣のために戦う、忠義心も高いすごい武将です。

2真田昌幸

真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある

「表裏比興」の者、徳川の宿敵

若い頃には武田信玄より「我が目のごとし」と称賛された武将。優秀な兄二人がいてあとを継げそうになかった昌幸に信玄から別の名を用意してもらったほどである。徳川家康を破ったのは武田信玄のみだが、榊原康政、徳川秀忠、大久保忠世、鳥居元忠という徳川家の家臣を破っている。

3竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

黒田官兵衛の息子も助ける秀才

黒田官兵衛の息子を隠したり、別の遺体を利用したりして秀吉までを感動させたことがある人物。その行動によって、黒田官兵衛の息子の命を助けた。

武田二十四将の一人

調略によって信玄を助け、信頼を得た武将。裏で活躍しているため、子:真田昌幸や孫:真田幸村より有名ではないが、実は二人よりもっと強い武将である。

5直江兼続

直江兼続

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。直江兼続(樋口与六)はお船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えた。

徳川家康を口説き落とす

直江兼続は、直江状という文をだして、徳川家康を挑発、反論、さらには激怒までさせた武将。この直江状が関ヶ原の戦いの原因にもなるすごい文であった。

6織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

本能寺の変は回避できた

信長が死んだ本能寺の変。本能寺の変では信長の供は100人もいなかった。このときに、「信長は家臣が裏切ることは絶対にない」と思っていた。もし、「裏切るかもしれない」と思っていれば、供を増やしたり護衛を強くしたりすることができた。あるいは、休む場所を寺ではなく城にしていれば味方の援軍が来るまで耐えれたかもしれない。よって、知略が低いことがわかる。

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