島津義弘の詳細情報
生没年 | 1535年〜1619年 |
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島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている。 (引用元: Wikipedia)
島津義弘がランクインしているランキング
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島津の退き口
鬼島津や島津の退き口で超!有名な戦国武将です。
あの無謀な関ヶ原の戦いでの家康本陣に突撃し見事薩摩(現在の鹿児島県の一部)に生還した。
でも・・・それはたくさんの兵や島津豊久などなど義弘を慕っていた人たちの活躍がとても大きいです。
そして島津家は幕末に西郷隆盛などの幕末や明治に貢献したひとをたくさん排出してますね。
本当!にすきですね
(武田信玄の次に)
祖先武田家家臣だった人さんの評価
関ケ原以外もまじですごい!
関ケ原での敵中突破はもちろんすごすぎるけど、
九州での活躍もすごい!耳川の戦いや木崎柄の戦いももっと有名になってほしい
ただこれらはすべて兄義久や弟たち、家臣など島津家全体がすごいからです
もし島津家全体が上方に生まれてたら織田といい勝負できただろうに…
おきゃやまさんの評価
島津すごい
関ケ原の戦いでの「捨てガマリ」がすごかった!まず、捨てがまりはしんがりに座禅陣(狙撃手)を置き捨てにして、本隊が逃げる作戦。残された兵は、命を捨てて防戦。さらに追って来る敵にも新手の座禅陣を残して食い止めて時間を稼ぐ間に大将が逃げる。そして、千五百もいた兵が80人になっていたという。俺が思うに、当たり前だが命をかけて自分らが死ぬ確率が高いのに逃げず、最後まで戦ったのは、やはり絆があったからだと思う。
島津氏に仕えたいさんの評価
釣りのーーーーーー伏せーーーーーー
義弘には先を見透しているかのようなふうに後々相手を追い込んでいく強さがとても強く全盛期では九州地方をほぼ統一していた秀吉の朝鮮出兵では酒川のたたかいでは約二十万の大軍を約六千で大勝し八万もの兵を討ったのだとか。
関ヶ原の戦いでは徳川軍を突破し薩摩へ帰ったことが有名です
Hikaさんの評価
戦国無双
東軍の大軍をまさかの突破!しんがりたちの活躍があってこその敵中突破だと思います。しんがりたちは命知らずで奮闘!死の確率が高いにも関わらず、しんがりたちが逃げなかったのは、絆があるからだと思います。これが島津の統率力の力なのです。加えて井伊直政を死亡させ、本多忠勝を落馬させ、8万の徳川軍を300人で敵中突破!ぶち抜いて薩摩に帰還するなど信じられない強さを持ちます。これに関して馬鹿という人がいますが、状況的に周囲はすべて敵軍だったのであって、命懸けの敵中突破しか方法がなかったと思います。やはり関ヶ原が有名ですが、もう一つ島津の統率力、戦強さがわかる戦いがあります。それが秀吉による文禄、慶長の役(豊臣秀吉による朝鮮出兵)です。朝鮮では、とてつもない寒さで凍死者が相次ぎました。しかし、島津軍は凍死者がいませんでした。なぜなら、位の高い人、低い人関係なく暖を取っていたからです。このエピソードでも、義弘の統率力の高さが伺えます。さらに、戦強さの面では、中国王朝「明」20万にたった6000で勝利。戦いには、宇喜多秀家らの諸大名たちも複数参加していたのですが、島津軍は、数人しか死者を出さず、韓国の英雄「李舜臣」を撃ち殺し、20万の敵兵のうち8万を殺すという化け物っぷり。しかも見知らぬ土地で不利な状態です。まさに戦国無双です。個人的には、上杉、徳川、本田、立花に並ぶレベルで強いと思います。
歴史マニア(中2)さんの評価
鬼石曼子と鬼島津
島津義弘は自分から正直に言うと1位にランクインしてもいいと思います。まず木崎原(?)の戦いで300の兵で3000の兵を倒したところから凄いです。次に武功を上げたのは文禄・慶長の役で明(現在の中国)軍に攻められた時約20倍の兵を抹殺したという俗説もあります。関ヶ原の戦いでは島津の特性の陣を使ったり島津豊久や長寿院熱盛(?)のお陰で逃げきれました。しかも退却中に井伊直政に傷を負わせ本多忠勝を落馬させました。黒田の軍とも戦うも勝利を成し遂げそれからは薩摩で最後を過ごしました。
伊達信者さんの評価
強すぎる
島津義弘の戦いを比べるとキリがないので、関ヶ原の戦いのことを話します。
島津義弘は石田軍の仲間になります。
戦いの最中で石田三成が逃亡してからが特にすごいです。島津軍は本拠地へ行くために関ヶ原から九州の方まで馬や船を使ってたどり着きます。その際に徳川軍の幹部クラスである井伊直政や本多忠勝らに負傷をおわせます。それだけでもすごいです。そして本拠地にたどり着き家康を迎え討とうとしますが、家康は島津の恐ろしさをわかっているため、最期まで島津のことが気がかりだったそうです。つまり、敗北した石田軍の中でも唯一生き延びたのが島津義弘です。しかも部下たちとの信頼も高く、なぜここまで強くなれるのか疑問に思うほどです。
島津義弘最強すぎん?さんの評価
戦国最強❗鬼島津👹
関ヶ原の戦い。
井伊直政を死亡させ、
本多忠勝を落馬させ、
8万の徳川家康軍を300人で、
敵中突破❗ブチ抜いた。
鬼島津っ🤗👹👺
福島正則の真正面に突撃❗
中国王朝『明』20万に勝利。
韓国の英雄『李舜臣』を撃ち殺した化け物。
九州の覇王、島津家。
強い❗
世界遺産の【仙巌園】は島津家の別邸。
日本の国旗【日の丸】を考案した島津斉彬。
日本最初に鉄砲を実戦に使用した【伊集院忠朗】。
徳川幕府を倒した西郷隆盛、
大久保利通、徳川将軍の正妻、天璋院篤姫伊集院家は島津家。
昭和天皇の娘は島津貴子さま。
もっと評価されるべき。
伊集院 須賀 夫人💖さんの評価
鬼島津 最強
朝鮮 文禄 慶長の役
自軍の兵隊を数名しか殺さずに
20万の朝鮮の兵を19万5000人殺して首を持っち帰るところが
自分たちにできないことを平然とやってのけていて
そこにしびれるあこがれるーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ゴリラ100%さんの評価
さいきょうすぎる!
島津義弘かっこいい!!とくに、島津の退き口がかっこいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ベタこんたさんの評価
適中突破は凄い!
関ヶ原の戦いの時に、義弘は家康の陣地に一気に向かっていった。
それで、家康の陣地を直ぐに突破して薩摩に帰ったというエピソードがあった。
そこから、義弘の勇敢さが見られる。
ゲストさんの評価
百戦錬磨の武将
文字通り百戦錬磨の武将。様々な戦いを戦い抜き、多くの武功を上げた島津義弘はやはりトップクラスの武将で文句ないでしょう。特に三万とも二十万ともいわれる敵軍を七千で打ち破った泗川の戦いは圧巻です。
ゲストさんの評価
九州各地で活躍し、天才ながらも兄に忠実だった!
あまり知られていませんが、義弘は九州で自軍の何倍ものてきを打ち破りました。義弘も、10年早く生まれていたら、天下を取れたでしょう。
KARIOKAさんの評価
数々のミラクルを起こし鬼島津と恐れられた武将
教科書には載っていませんが、戦国時代を知る上に置いて是非とも知っておきたい人物です。
島津義弘のすごいところはその戦績にあります。
木崎柄の戦いでは3000の軍勢を相手に、わずか300の軍勢で勝利したため、この戦いは「九州の桶狭間」と呼ばれます。さらに朝鮮出兵では20万と言われる朝鮮の軍勢に対し、7000の兵で勝利。豊臣秀吉を驚かしただけではなく、徳川家康にも「前代未聞のこと」たたえられました。
また関ヶ原の戦いでの島津の退き口は本当に圧巻です。東軍を支援するつもりでしたが、ひょんなことから西軍に参加することになった島津義弘は、本国から援軍を受けることができず、わずかの軍勢で関ヶ原の戦いに臨むこととなってしまいます。関ヶ原の戦いの敗戦が濃厚になると敵陣を中央突破するという凄まじいやり方で戦線を離脱します。この島津の退き口はしびれるものがあります。
また島津義弘の魅力はその人柄にもあると言われています。自らの家臣に男の子が生まれると必ずその赤ん坊を抱っこして家臣を労ったと言われています。島津義弘は生前、「自分が死んでも殉死してはならない」と言いましたが、結局島津義弘が亡くなった後、家臣は13人も殉死してしまったのです。それほど家臣に慕われていたとも言えるかもしれません。
とにかく85歳まで生きたのでエピソードには事欠かない非常に魅力的な武将です。
歴史コメンテーター
金谷 俊一郎さん (男性)
1位(100点)の評価