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毘沙門天の子さんの「戦国武将・大名ランキング」

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更新日: 2023/12/07

毘沙門天の子

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ランキング結果

1武田信玄

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。

人使いが上手

統率力が凄い!🐅
誰がどの役目を担うのが最適か見極めるのが上手だから、あれだけ強い軍隊を作ることが出来たんだろう。
長生きしてほしかった泣

1今川義元

今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。

天下も狙えた武将

東海地方一帯を支配し、政治力もあった大名。ある意味信長を世に出した武将。

1島津義弘

島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている。

朝鮮出兵の泗川の戦い、7000人で朝鮮軍20万を撃破するとは!
関ヶ原では敵陣に一人取り残されながら「捨て肝」で突撃して中央突破して薩摩に帰るって凄すぎる。

1井伊直政

井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

山県から引き継いだ赤備え

家康に「赤備えを引き継げ」て言われたというのも一つの理由だと思うが、合戦では常に先頭を駆けて戦って、全身傷だらけみたいなまさしく「赤鬼」のような武将。外部交渉も上手。

2真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

武力・知力 兼ね備えた名将

勇猛果敢さと、優れた作戦を考え実行する知力をどちらも兼ね備えた類い希なる天才!
家康の本陣に突撃するのも凄いけど、その前にいた松平忠直軍1万5000人を3000の手勢で正面から突撃して蹴散らす時点でヤバい。

2本多忠勝

本多忠勝

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

家康に過ぎたるもの二つあり…

三方ヶ原では3000人で2万7000人の武田軍を足止めして家康のピンチを救い、姉川では朝倉軍1万に1騎で突撃し、関ヶ原では愛馬を撃たれても、90人も討ち取ったその武勇。57回の合戦で、手傷一つ負わなかったその運。長久手で豊臣本軍8万の前にわずか500人の軍で立ちはだかり、馬に水を飲ませるという図太い性格。まさに、戦の神!

3山県昌景

山県昌景

山県 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。

武田軍最強部隊 赤備え

三方ヶ原で家康をあと一歩まで追い詰めるなど武勇が桁外れている!
長篠の戦い、武田勝頼に撤退を進言したが受け入れられず、死を覚悟して鉄砲隊に突撃したあの死に様は見事だった。

真田に隠れてるけど…

大坂夏の陣では真田幸村の捨て身の突撃が有名だが、毛利も家康の本陣に突撃して蹴散らす活躍を見せていた猛将。めっちゃ好き。

5加藤清正

加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。

とにかく猛将

賤ヶ岳七本槍に選ばれたり、虎退治など猛将エピソードがすごい。
熊本城を築城して、1877年の西南戦争では西郷隆盛軍の52日間の猛攻に耐えて落ちなかったから、相当城作りも上手かったんだなと思った。

5上杉謙信

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。

毘沙門天の化身

戦の神。対立しながらも敵のことを、今の言葉で言うと「リスペクト」している。「戦場以外の場所では敵ではなく同士である。」そんな言葉も残しており、今に生きていたら理想の上司。

5毛利元就

毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。

中国地方の覇者

頭が良い。子供も優秀。

6立花宗茂

立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

まさに西国無双

父・高橋紹運が倒された時、見事な作戦で岩屋城、宝満城などを島津から奪還したり、朝鮮出兵では5万の敵を数千で撃退して味方を救ったり、まさに西国無双といえる目覚ましい活躍を見せた猛将。
関ヶ原で西軍についた武将の中でただ一人大名に復帰したことから、人望もあったんでしょうね!
調べたら、「東国無双」と呼ばれた本多忠勝と遠い親戚だったんですね。

6伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

大きな野望を持っている

24歳で奥州の覇者となり、絶対領地を広げて天下をとってやるという野心がすごい。大坂夏の陣での真田との戦いは面白い。まさに「独眼竜」

6前田利家

前田利家

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に加賀百万石の祖とも称されるが、前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。

かぶき者

若い頃は信長みたいなやつだったが、その信長に仕えると「槍の又左」として合戦で大暴れ。政治面では五大老の一人で、加賀100万石の基礎を築いた。

7高橋紹運

高橋紹運

高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。 紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。

岩屋城の戦いは泣ける

763人で2万~5万の島津に挑んだ岩屋城の戦い。全員が死ぬまで見事に戦い抜いた!

7後藤又兵衛(後藤基次)

後藤又兵衛(後藤基次)

後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。

大坂の陣で活躍

黒田長政と仲が悪くなって浪人になった時に暮らしていた所が近くにある。

8鳥居元忠

鳥居元忠

鳥居 元忠(とりい もとただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。

家康を若年期から支えた真の武士

関ヶ原の時、上方を任された時、「一人でも多く連れて行きなされ」と家康に話した時のエピソードは感動した!
そして、とうとう4万の西軍が伏見城に攻めてきた時は1800人足らずの城兵で13日間も耐えていたのが凄い!

8織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

戦国の覇王

今川義元に大金星から、戦国を駆け抜けた覇王。
仏教信者を殺しすぎ
今は地獄にいるのかな?地獄の鬼にも勝てそう

山県と並ぶ武田の猛将

70戦で傷を負わなかったと伝わる。
長篠での死に様は見事

猛将

賤ヶ岳では七本槍に数えられる程の活躍。
関ヶ原では合戦の先陣を切る気満々だったが井伊に取られてしまう。それでも合戦で活躍して50万石まで出世して凄い。

政治力もあった武将

「腹立てずの会」というのを1か月に3回ペースで開いて、家臣の意見(長政に直してほしいこと、要求)を黙って聞いて、政治に引用するということをしていたので、政治力もある素晴らしい武将だと思った。

10大谷吉継

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

忠義心

勝敗よりも親友をとった忠義の武将。

愛妻家だが…

関ヶ原の戦いでは首級を136挙げる活躍をした反面、正室の細川ガラシャを溺愛しすぎて、ちょっとガラシャのことを見た世話役を斬り殺したり、女癖が悪い秀吉に「妻を取るな!」と直接忠告したりしていて、いきすぎた愛妻家だなと思う。

11豊臣秀長

豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが) または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

秀長がいればなぁ

秀長がいたら秀吉が晩年あんな暴れることは無かっただろうに…
秀次事件も無かったんじゃ…

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