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もうすぐ中3さんの「戦国武将最強ランキング」

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更新日: 2025/03/14

もうすぐ中3

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ランキング結果

1徳川家康

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。

総合的に見てまず間違いなく最強

家康の強みは、何と言ってもその総合力にあります。
僕は武力、知謀、統率力、政治力、交渉術、対応力というステータスで武将を評価するのですが、家康の場合、そのどれをとってもステータスがぶっ壊れているのです。
武力と交渉術は、徳川四天王による活躍が大きいですが、それを抜きにしても、桶狭間の戦いで信長が義元よりも警戒していたことを考えるとその強さがわかります。
知謀に関しては、関ヶ原の戦いで一番発揮されたと思います。
三成襲撃事件の際に、わざと三成を生かしておくことで、自身に敵対する大名を三成の元に集中させ、戦で一気に滅ぼせるようにし、さらに三成を餌にして武断派大名を取り込んで兵を確保。その上で、三方ヶ原の戦いで自身を破った武田信玄の策をコピーして三成の出陣を誘発。さらに確実に勝利するために、西軍の武将への調略を行って西軍の兵力の約半数を無力化し、小早川に関しては鉄砲で脅して無理矢理寝返らせ、大谷軍を壊滅させ、その結果僅か半日で勝利するという、とんでもない芸当を見せました。
また、徳川四天王という化け物を従えるだけの高い統率力も持ち合わせている他、政治力に関しては、経済的な要所をしっかりと抑えている上に、大名の配置や一国一城令など、幕府が長く続くための工夫が凝らされていたので高評価です。

2立花宗茂

立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

滅茶苦茶強い

立花宗茂は、自らが総大将として指揮した戦いでは、一度も負けたことがありません。
やはり、その強さは武力にあるでしょう。
あとは九州の地の利を生かし、いち早く早合という道具を取り入れたのが大きいですね。
早合を使うと、通常の倍くらいの早さで鉄砲を撃てます。
宗茂は、武を持つ上に知力も高く、築城力も高水準。
また、領民にも慕われる統率力と政治力も非常に高い評価ができます。

2織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

圧倒的すぎる経済力で天下を取りかけた武将

織田信長は、戦の采配がド下手クソです。戦における個の力量だけ見れば、戦国最弱クラスでしょう。しかし、武将の強さは、必ずしも個の力量に比例するわけではありません。信長の強みは、政治、交渉、貿易、政治力にあります。信長の経済戦略は極めて優秀で、あらかじめ当時日本最大の港である堺をおさえておくことで、経済的に圧倒的有利な盤面を築きました。関税収益で富を蓄えることができ、その富を常備兵や兵器などに有効活用することにより、圧倒的軍事力を手に入れることができ、堺で物資を独占することにより、実質的な経済封鎖で他の武将の弱体化にも成功しました。これは、飛び抜けた政治力と交渉術があったから成し得た神業です。

3島津義弘

島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている。

滅茶苦茶強い薩摩の王

義弘の強みは高過ぎる武力と統率力です。
朝鮮出兵では、身分関係なしに暖をとっていたため、凍死者が出ず、中国王朝「明」との戦いでは、たったの6000ほどの兵で8万の敵兵を討ち取ったとか言われてます。それも数人しか死者を出さず。
しかも島津の退き口では、8万の徳川軍を突破し、徳川四天王の本田忠勝と井伊直政を負傷させ、井伊直政に関してはこの時の傷が原因で死亡しています。もう無茶苦茶ですww家康でもあらゆる策略を施して何とか勝てるレベルだと思ってます。

4毛利元就

毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。

強すぎる知謀の神

毛利元就の強みは、何と言っても非常に高い知略です。
厳島の戦いでは、重臣敵方に寝返ったように見せかけ、「今毛利は厳島に攻め込まれるとまずい」という嘘の情報を流布し、実際には毛利に有利な厳島まで誘導。そして敵方の本陣の裏山に潜伏し、奇襲を仕掛けて勝利しました。
また、元就は統率力も高く、三本の矢の教えなど、協力することの大切さも理解していた上、領地には石見銀山もあるため、経済力も盤石だと思われます。それを考えると、毛利元就は全体的に穴がなく、弱点の少ない武将とも考えることができます。

5上杉謙信

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。

戦国最強の戦術家

上杉謙信は、戦いにおいて最強の知略を持った武将で、勝率は約95%です。
僕が思うに、戦国最強の戦術家は間違いなく謙信です。
謙信の有名な戦いといえば川中島の戦いですが、他にも、彼の才能が光った戦いは山ほどあります。初陣は栃尾城の戦いです。
敵兵が突撃して川を渡り始めた時に出陣し、足場が悪いうちに撃退しました。
晴景が栃尾城を攻めてきた時には、晴景軍が小荷駄を連れていないことから、見せかけの攻城を看破し、晴景軍の退却中に夜襲を掛けて勝利しました。
川中島の戦いでは、第三次川中島合戦まで、信玄は謙信と戦うことを嫌がった上、第四次川中島合戦では、山本勘助の啄木鳥戦法を見破り、車懸かりの陣を使って武田軍本隊を強襲し、多大な被害を及ぼしました。
北条氏政との戦いである唐沢山城の戦いでは、35,000の北条軍にたった45騎で勝利し、また、小田原侵攻作戦では、小田原城を落城寸前に追い込むなど、北条氏康をも圧倒します。また、この際、武田軍が碓氷峠を越えようとしているとの一報が入って、結局このことによって、小田原侵攻作戦は中断せざるを得なかったのですが、謙信だけは、小田原城を攻め続けようと主張しました。これが実は恐ろしいところで、小田原城を攻め落としたら、関東一円の兵力を使って、今川氏真を滅ぼし、駿河を手に入れ、越後、関東、駿河から甲州を挟撃して武田を滅ぼし、その上で織田信長をも屠って楽々と天下を取れていたということです。このように、側から見れば穴のない武将に見えるかもしれませんが、弱点は2つあります。
まず1つ目の弱点、政治力の低さです。謙信には、人々の欲求を捉えられるだけの、世間智がありません。彼の育った寺、林泉寺では、そんなことは教えてもらえなかったので仕方ないっちゃ仕方ないですが、そのせいで国人同士で対立が起こってしまい、その結果、大熊朝秀が武田家と内通し、謀反を起こしてしまいました。
そして一番の弱点は、説明能力の不足です。そのせいで、小田原進攻作戦の際、天下統一の最大のチャンスを逃してしまいました。

6伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

東北最強の戦国武将

伊達政宗の強みは、政治力、対応力、圧倒的交渉術です。政治力は極めて高く、仙台藩を発展させ、それが現在まで続いています。
無茶な戦はせず、圧倒的権力者には従うという冷静な判断力や、秀吉に罪を疑われたときに白装束を着たり、金の十字を掲げるなどの圧倒的対応力、そして何より、徳川秀忠がいなければスペインとの軍事同盟を締結させることができていたという戦国最高の交渉術を誇っています。加えて、領民に慕われるなど統率力も高かったり、戦における駆け引きも隙がなく、自身に反対する勢力とは堂々と戦って勝利するなど、全体的に弱点の少ない武将だと思います。

7大谷吉継

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

はっきり言って滅茶苦茶強い

大谷吉継の強みは、何と言っても戦いにおける異常なまでの能力の高さです。
小早川秀秋が寝返るのを予見し、先手を打って対策していて、脇坂が寝返らなければ確実に成功していて、そしたらおそらく勝敗は逆だったでしょう。これに関しては吉継、家康の両者の戦略がすごかったとしか言いようがありません。また、脇坂が裏切ってもしばらく対抗できていたという高い武力も見られます。
そして何より、秀吉に「100万の軍勢を使わせてやりたい」と言わしめるほどの指揮力は戦国屈指だと思います。

8北条氏康

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。

間違いなく関東最強

10万の上杉軍と一時的とはいえ互角に渡り合った高い武力と、河越夜戦での騙し討ち+奇襲という超優秀な作戦を考えると、この辺の順位が妥当だと思います。

9武田信玄

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。

強いけど少し残念な武将

武田信玄の強みは、すべてを高水準でこなせることです。
武力においては、3回しか負けたことがないので当然高水準ですし、知略に関しては、上杉謙信の意図を汲み取れているので勿論トップクラスです。第4次川中島合戦で謙信の奇襲を受けた際も、咄嗟に鶴翼の陣で対応するなど、高速かつ的確な判断ができる他、信玄堤や甲州金など、政治力や経済力も高いです。唯一の弱点は、地の利です。
武田信玄の領地、山梨は海がないので塩が取れず、今川、北条に塩の供給を止められた際は、大ピンチに陥りました。(一応誤解の無いように言っておきますが、僕は決して山梨県をバカにしている訳ではありません。地政学的観点で、武田が圧倒的不利だと言いたいだけです。)

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