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1位織田信長
2位豊臣秀吉
賤ヶ岳の戦いの柴田勝家との一戦に勝ち天下人となった
「豊臣秀吉」は、「織田信長」や「徳川家康」と並び戦国三英傑の1人に数えられている戦国武将です。豊臣秀吉は農民の出身でしたが、数々の武功を挙げた上に本能寺で織田信長を暗殺した「明智光秀」を討ち取ります。その後、清洲会議で対立した「柴田勝家」に勝利すると、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)らを取り込み勢力をさらに拡大し、ついには天下人・関白まで上り詰めました。「墨俣一夜城」(すのまたいちやじょう)や「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)など様々な逸話を残した豊臣秀吉の生涯をご紹介します。
3位島津義弘
島津の退き口
1572年(元亀3年)伊東義祐が3,000の大軍を率いて攻めてきました。いわゆる木崎原の戦いです。敵方の攻撃に対して、島津義弘は、わずか300の兵でこれを打ち破りました。このとき採った戦法が「釣り野伏せ」です。釣り野伏せとは、隊の配置を左右と真ん中にし、左右の隊はあらかじめ隠れておきます。真ん中の隊は敵の正面に激突させ、押されているふりをして退却し、追撃してきた敵を隠れていた左右の隊で挟み撃ちにする戦法です。真ん中の隊も攻撃に転じれば、左右、正面の3方向から攻撃できます。
この戦法は、少数で大軍を殲滅させるのに有効でした。島津軍は、釣り野伏せ戦法を効果的に使いこなすことで、数の上では不利な戦を何度も勝利することになります。
耳川の戦いで大友宗麟に大勝
「島津家久」(しまづいえひさ)は、決戦の地を湿地帯である沖田畷(おきたなわて:現在の長崎県島原市)に選定。兵力に勝る龍造寺軍をおびき出し、殲滅(せんめつ:残らず滅ぼすこと)させる作戦を採ることに決めました。
島津軍は、龍造寺軍が攻めてくると、おびき寄せるため応戦することなく退却。それを追撃してきた龍造寺軍に伏兵が鉄砲や弓を打ち込む奇襲攻撃で、龍造寺軍にダメージを与えました。龍造寺軍は、前線が退却しているにもかかわらず、後方に控えていた部隊が前進。これにより、身動きが取れなくなるなど、大混乱に陥ります。この戦いで龍造寺隆信は討ち取られ、沖田畷の戦いは、島津・有馬連合軍の大勝利となりました。
沖田畷の戦いの勝利によって、島津氏の勢力は北九州まで拡大。九州には島津氏に対抗できる勢力はなく、九州統一目前という状況でした。
朝鮮・明軍は島津義弘の戦いを見て鬼島津を名付け恐れました。
4位真田昌幸
真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある
知勇兼備
1569年(永禄12年)、武田家と北条家が争った「三増峠の戦い」(みませとうげのたたかい)が勃発します。真田昌幸はこの戦いで、武田家の重臣「馬場信春」(ばばのぶはる)の使番(つかいばん)を務めていました。
任務は、戦場において正確な情報を伝えることですが、真田昌幸はその任務を正確にこなすだけでなく、戦場での一番槍も挙げ、武田信玄の信頼を勝ち取ったのです。三増峠の戦いは、武田家の勝利で幕を閉じます。
5位武田信玄
政治力の高い武将
「武田信玄」(たけだしんげん)は、甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。「甲斐の虎」と呼ばれた彼の率いる武田軍は当時最強と言われ、その武勇はのちの天下人「織田信長」の耳にも届き、恐れさせるほどでした。天下を目指していた武田信玄が、上洛を前に病に倒れることがなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれないとも評されています
6位本多忠勝
東の本多忠勝
本多忠勝は、生涯をかけて「徳川家康」に奉公し徳川幕府250年の天下の基礎を築いた戦国武将です。
「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」のひとりであり、徳川家臣最強の武将であったと語り継がれています。「日本三名槍」のひとつである「蜻蛉切」(とんぼきり)を愛刀としていた武将も本多忠勝です。
単騎で朝倉軍に正面から突入した「姉川の戦い」や武田軍から徳川家を守った「一言坂の戦い」などで武功を上げた本多忠勝の強さはまさに別格。生涯で57回もの戦闘に参加したにもかかわらず、傷ひとつ負わなかったという逸話があります。
こちらのページでは、戦国大名としても活躍していた本多忠勝の戦歴や人物像だけではなく、本多忠勝が残した名言や家紋、愛用していた槍「蜻蛉切」についてご紹介します。
7位毛利元就
権謀術
「毛利元就」(もうりもとなり)は、安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の国人領主から、中国地方全域を統一した戦国時代の豪傑。幼少期に両親を失い、19歳で兄を失い、さらに甥までをも亡くしたことで、次男にして毛利家の家督を相続します。権謀術に長け、稀代の策略家としても有名な武将です。一代で中国地方統一を成し遂げた、毛利元就の生涯を見ていきましょう
8位上杉謙信
毘沙門天
「上杉謙信」は、越後国(現在の佐渡島を除く新潟県)山内上杉家16代当主の戦国武将です。長年内乱が続いていた越後国を治めて、繁栄させるために尽くした一方で、「武田信玄」や「織田信長」など、名だたる武将と合戦を繰り広げてきました。
9位立花宗茂
戦いは兵数の多少により決まる物ではない
立花宗茂(たちばなむねしげ)は、九州勢の中で非常に活躍した戦国武将のひとりです。
「九州征伐」で武勲を立てた立花宗茂は、豊臣秀吉より所領を授かり大名に出世。一介の家臣だった者が大名に出世することは、当時では異例の出来事でした。その後も、朝鮮出兵に参加するなど、豊臣秀吉が亡くなるまで、活躍を見せています。
豊臣秀吉が生前、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評していたことから、徳川家康も立花宗茂を警戒していたようです。立花宗茂は、豊臣秀吉が亡くなったあとも、豊臣秀吉に対する恩義を重んじる人物でした。
10位伊達政宗
独眼竜
伊達政宗」は、「独眼竜政宗」の異名で知られる出羽国(でわのくに:現在の山形県と秋田県)出身の戦国武将。17歳で奥州伊達氏の家督を継ぐと、19歳で南奥州を支配し、仙台藩初代藩主となって東北の繁栄を築きました。あと10年、20年生まれるのが早ければ天下人となっていたかもしれないと言われる伊達政宗は、謝罪と処世術の達人でした。
11位吉岡定勝
秀吉の軍歴の中でも輝かしい時期に因幡の小豪族でありながらも秀吉から大金星を挙げたのが「吉岡定勝」なのです。
羽柴秀吉の鳥取城の包囲戦時。
吉岡定勝の防己尾城は鳥取城の西方にありました。
秀吉は包囲軍に襲撃を繰り返す吉岡定勝を叩き潰そうと考え秀吉自身も防己尾城へと進軍。
秀吉は意表をついて彼の親衛隊である黄母衣衆に大きな湖水側から城を攻撃させましたが…。
しかし裏をかいたつもりが逆に裏をかかれた黄母衣衆は逆襲されて岸の水際へと追い詰められて壊滅。
しかも秀吉が黄母衣衆に与えていた『千成瓢箪』の馬印の旗もが奪われてしまいました。
吉岡軍は
「天下無双の秀吉を討ち取ったり!証拠はこの千成瓢箪の馬印!」
と大声をあげて盛り上がりました。
その後、意地になった秀吉は再度攻撃しようとしましたが、
軍師の黒田官兵衛に
「鳥取城を落とせば防己尾城は自落するので攻略不要!」
と諫められ、城への包囲・兵糧攻めを指示して鳥取城包囲戦へと帰還。
元々は官兵衛は防己尾城攻略は必要無しとして派兵に反対していたのです。
結局、防己尾城はその後、半月ほどで落城。
しかしその時には防己尾城はすでにもぬけの殻で吉岡定勝らの脱出後でした。
秀吉の軍歴の中でも輝かしい時期に因幡の小豪族でありながらも秀吉から大金星を挙げたのが「吉岡定勝」なのです。
12位甲斐親直
「島津には決してこちらから戦いを仕掛けずに守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」
阿蘇家家臣。
内政・外交・軍事とマルチに大活躍。
生涯において60戦無敗と言われる弱小大名の阿蘇家の柱石。
とにかく主家の阿蘇家を裏切った者は例え親族であろうと徹底的に誅殺する過酷さを持った人物でした。
大友氏と龍造寺氏と島津氏の3者の間で生前中は弱小大名の阿蘇家を見事に存続させました。
天正11年(1583年)
75歳にて病死。
直前には
「島津には決してこちらから戦いを仕掛けずに守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」
と遺言。
しかし2年後、
島津氏の攻撃により阿蘇氏はあっさり降伏し滅亡。
それは豊臣秀吉の九州征伐の1年前の事でした。
13位赤井直正
丹波の赤鬼
「丹波の赤鬼」と言われ恐れられた。
明智光秀の氷上郡侵攻に対し、直正は黒井城に籠城し、2ヶ月以上が経とうとした頃、波多野秀治が突如、反旗を翻して、明智軍を急襲。赤井、波多野軍に三方から攻め立てられた明智軍を敗走させた。
大うつけ
尾張を統一し、兄弟間の熾烈な抗争を勝ち抜いた織田信長は、1560年(永禄3年)、駿河の「今川義元」と対峙し「桶狭間の戦い」を迎えます。兵力では今川勢に分がある状況で、織田信長は出陣する前に家臣を鼓舞するための敦盛(あつもり)を舞いました。
敦盛は、「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」という一節で有名です。人生の短さを喩えた舞を終えた織田信長は、「法螺貝を吹け、武器をよこせ」と言い、出陣。