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戦国マニアさんの「戦国武将最強ランキング」

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更新日: 2025/06/08

戦国マニア

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ランキング結果

1徳川家康

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。

最強

何と言っても最終的に天下を取った人なので最強なのには間違い無いのですが、家康の強みとしては、総合力です。逆に総合力がなければ天下なんて取れないわけですが、特に抜きん出ているのは知略と冷静さ、そして用意周到な準備です。
徳川家康は、戦う前から、極めて高度な深謀遠慮と用意周到な準備で、アドバンテージを作ってきました。それが顕著に現れているのが、関ヶ原の戦いです。もう戦う前から武断派大名を人形の如く操っていましたね。家康はまず、吏僚派の石田三成と武断派大名達の対立に目を付けました。そして三成襲撃事件の際に、わざと三成を生かしておくことで、自身と敵対する勢力を1つの戦で滅ぼせる状況を作り、その上三成を餌にして武断派大名が自分に従うという構図を実現。
そして大義名分を掲げて上杉景勝を攻め、三成を誘導。
その上で西軍の大名達を調略してアドバンテージを作ってから開戦する。完璧な戦略です。
また、大坂の陣では、真田に威力では劣ったものの、堀埋め作戦で無力化して夏の陣で勝利するなど、冷静さも頭抜けています。
その上強力な家臣団をまとめ上げる統率力もあります。
そして、強さとは数。徳川家康には無論、最強の軍事力があるわけですから、間違いなく戦国最強の武将です。(長々とすみません)

2大谷吉継

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

家康には一歩及ばなかった

大谷吉継は、小早川秀秋の裏切りで討ち死にした、敗軍の将です。
しかし、実を言うと、関ヶ原の勝敗にすら関わってくる武将です。
関ヶ原の戦い。東軍が半日で勝利したので、東軍の圧勝に見えますが、かなり紙一重の頭脳戦です。
と言うことで大谷吉継のその強みは圧倒的な頭脳と読みの力にあります。西軍は序盤は優勢に戦いを進めており、大谷吉継は、最初から小早川秀秋が裏切ることは読んでいました。だから、秀秋が裏切った時に封殺できるように対策を取っていました。しかし、脇坂の裏切りで状況は変わります。大軍を相手に真っ向から戦うしかなくなってしまったので、奮戦しましたが、討ち死にしてしまいました。しかし、この作戦がハマっていたら西軍優勢のまま戦いが進み、勝敗は逆転していました。つまり、家康が準備を少しでも怠っていたら、勝っていたのは西軍です。また、大谷吉継は、秀吉に「100万の兵を使わせてやりたい」と言われるほどの指揮能力があります。
このことから、家康には一歩及ばないものの、大谷吉継は戦国最強クラスの武将であることがわかります。

3織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

最強の国力

信長は天下をほぼ統一して土台を作った人物ですが、個人としての能力は低いです。ではなぜ信長がここまでの偉業を成せたのか。それは国力です。
その基盤を作り上げたのは信長であり、それがなければ秀吉は天下を取るなんて不可能です。
信長は、生まれた時から環境には恵まれていました。尾張の石高は凄まじいものでした。その上、信長は家康と同盟を結んで東の守りを盤石にした上で、同じく国力の高い美濃を抑えました。そして、足利義昭を守って上洛すると、摂津と近江を手に入れました。近江は琵琶湖に面しているため、水運も盛んです。
そして何よりも重要なのが、当時、日本最大の経済都市だった堺がある、摂津を手に入れたことです。
堺などの物流の要を抑え、海外からの物流を見事に支配。そして自分は金で常備兵で質の良い大軍や、鉄砲などの新兵器で軍事力を底上げし、敵対する大名は海外からの物資をなかなか得られない。
経済を支配することで明確なアドバンテージを作り、圧倒的な軍事力で天下統一事業をほぼ達成したわけです。
これが、武田信玄や上杉謙信などの戦国最強と言われるほどに優れた大名が、信長に勝てないシンプルな理由、国力の差です。
この国力の差をほぼ一代で実現させたのは凄すぎます。
統率力や戦術眼まであれば、間違いなく1位だったのですが、残念ながら本能寺の変で明智光秀に裏切られて死んでいるのでこの順位です。

4立花宗茂

立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

西日本最強の武将

自らが総大将となった戦いでは一度も負けていない。そんな武将が強く無いわけがありません。
宗茂の強みは、総合力です。高い築城力も持ち合わせ、それを生かした優秀な戦術で数々の戦いに勝利した他、領民からも慕われる高い統率力や、九州の地の利を生かした貿易による経済支配。そして鉄砲や早合といった強力な新兵器を手に入れるといった軍事力など、能力に抜け目がありません。数としては大大名よりかは少ないものの、質を極め、高い頭脳で勝利してきたのが宗茂です。

5島津義弘

島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている。

鬼島津

あの島津の退き口で有名な島津義弘。島津義弘の強みは、何と言っても圧倒的な統率力と兵の質です。
家臣達に、この人についていきたい。この人のためだったら死んでも助けると思わせるのは、高い統率力の証です。
また、中国王朝「明」の20万の大軍と交戦し、6000人で勝利してしまうのも、兵の質と義弘の優秀さを物語っています。
また、島津の退き口では、捨てガマリで残った兵は命を捨てて防戦し、義弘は逃げると言う戦術で、本多忠勝を落馬させ、井伊直政を負傷させました。この戦いからも、兵の質と義弘の高い統率力が伝わります。

6毛利元就

毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。

西日本屈指の策略家

毛利元就の強みは、総合力と、何と言っても頭抜けた策略です。
厳島の戦いでは、事前工作で敵側の内乱を誘発して戦力を削ぎ、その上で厳島で奇襲を仕掛けて勝利しました。厳島の戦いは、日本三大奇襲の一つとされています。
また、尼子氏と戦った第二次月山富田城の戦いでは、尼子軍を兵糧攻めにして飢え死にさせ、その上投降した者すら切り捨て、そして、「投降を認める」という立て札を出し、さらには粥の炊き出しを行うなど、精神的に揺さぶりをかけ、尼子軍は雪崩の如く投降し、最終的に尼子氏は投降を余儀なくされました。
こうした知略の他、高い統率力や、両川体制を築いているあたり政治面や武力も抜け目がなく、石見銀山があるため、経済面も盤石です。

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