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戦国大好き🥰さんの「戦国武将・大名ランキング」

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更新日: 2025/03/02

戦国大好き🥰

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ランキング結果

1上杉謙信

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。

カッコいい戦国武将!

武田が塩不足だった際に塩を送る・・・・・・味方ならともかく敵に送るなんて、謙信はとっても優しいのだと思います。トイレで倒れたってのがちょっと気になりますが・・・・・・しかも、戦で負けたのが2回っていうのがすごいですね・・・・・・

戦国三大梟雄の一人

備中の三村家親を鉄砲で暗殺したところがすごいと思います。よく成功できたなあと・・・・・・宇喜多氏は直家の父の代に没落していますが、直家はどんな手を使ってでも、成り上がってきました。その結果直家は備前の大名になります。一からどんな手を使ってでも成り上がるということは、戦国武将に必要なものだと思います。

1織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

戦国武将の中でもすごい人

信長って、比叡山焼き討ちや長島一向一揆で僧を何千人も討ってきたから、魔王っていうイメージが強いですが、信長は平和な世を作るために、反抗した奴らを次々と殺していったわけで、自分に歯向かうものには容赦ないという感じだと思います。

三木城の干殺し

三木城の干殺しは2年間にも及ぶ過酷な戦いでした。そんな三木城の干殺しの時の別所家の当主が長治です。そして長治は1580年に秀吉に降伏し、妻子と共に自害しました。
本当に悲劇の将です・・・・・・・・😢

尼子再興軍の総大将!

尼子再興のためにいろいろしている武将です。上月城で息子らと共に自害した・・・・・・可哀想です😢

3片倉景綱

片倉景綱

片倉 景綱(かたくら かげつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達家の家臣。伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称小十郎(こじゅうろう)は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。兜は、神符八日月前立筋兜。

片手千人斬り

武田滅亡の際に崖に落ちないように藤の枝につかまって敵を倒したことから片手千人斬りだそうです。兄の土屋昌続より大好きです。

4井伊直政

井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

5明智光秀

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされる。

信長裏切ったけど色々すごい人

信長を裏切り、結局秀吉に倒される・・・・・・自業自得ですね。
でも、光秀は妻の煕子を大事にし、連歌に長けていたので、すごいと思います。
ただ、光秀は真面目なので信長とは馬が合わなかったのかも知れません・・・・・・

6竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

長生きできたらな〜

長生きできたら官兵衛の名が後世に轟かずに半兵衛の名がもっと知れ渡ったと思います。

7井伊直虎

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井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江井伊谷の領主。「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料は一通の書状しか存在しないが、通説では江戸時代に書かれた井伊氏の家伝、『井伊家伝記』において女性ながら井伊家当主になったと記載された井伊直盛の娘、次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされる。その存在については、様々な考察がなされている。

女地頭!

井伊直親の婚約者の直虎は、直親が妻を迎えて出家して次郎法師となり、後で還俗します。直虎は女城主になって御家を守るとこが素敵です!

8立花宗茂

立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

9立花誾千代

立花誾千代

立花誾千代(たちばな ぎんちよ、永禄12年8月13日(1569年9月23日) - 慶長7年10月17日(1602年11月30日))は、戦国時代の女性武将。

12伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

13浅井長政

浅井長政

浅井 長政(あざいながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。

あんま知らないけど・・・・・・・・

義久はそう知らない。娘の島津亀寿は好き。

15直江兼続

直江兼続

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。直江兼続(樋口与六)はお船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えた。

16蒲生氏郷

蒲生氏郷

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(またはレオ)。子に蒲生秀行。

18北条氏康

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。

清音院殿との方が似合うと思う

彼はもともと清音院殿っていう正妻がいたけど、彼女は小松姫がやってきて側室になってしまいます。個人的には信之と小松姫より信之と清音院殿のほうが素敵な夫婦だと思います。ちなみに清音院殿は真田丸のこうに当たる人物です。

19小早川隆景

小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。

誾千代の父

女武者誾千代の父。

21真田昌幸

真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある

家康に仕えてたら・・・・・・・・

家康に仕えてたらもっと能力発揮できたと思います。

22服部半蔵

服部半蔵

引用元: Amazon

すごい人なのはとっても分かるのだが・・・・・・

服部半蔵は伊賀越えで活躍してるのでとってもすごい人だと思うのですが・・・・・・画像が怖い。

23石田三成

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

関ヶ原ねえ・・・・・・

関ヶ原の戦い・・・・・三成は、家康よりも権力弱いし、負けたとしても仕方がないのかも知れません。だから小早川秀秋も「おい、東軍ついたら恩賞あげるぜ。だけど裏切らなかったらどうなるのか分かるよな!」って脅されたらそうなるでしょう(実際は違うと思いますが・・・・・・)。
でも、豊臣への忠義はとてもいいと思います。

キリシタン武将

最後のキリシタン武将です。

23大谷吉継

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

23長宗我部元親

長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。

鮭大好き武将

最上義光は鮭が大好きな武将だったそうです。
駒姫の件は・・・・・・とっても可哀想です。

すごい奴だがおかしい面もある

忠興は妻のガラシャを見ていた庭師をぶっ殺してますからね。表現は悪いですけど、嫌いです。あとまず妻見てたからって普通殺しますか?そこが忠興の悪いとこなんですよ。

25山県昌景

山県昌景

山県 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。

身長小さすぎ

山県昌景は身長が140cmです。平均身長が低い当時にしても低い思います。

27鍋島直茂

鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。

なんで?

なんで主君より順位が上なの?

27黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田官兵衛(黒田孝高)

黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

軍師なら罠を見抜けないの?

官兵衛は荒木村重に捕えられ、有岡城に幽閉されています。半兵衛と共に両兵衛と呼ばれるほどの軍師なら荒木村重の罠も見抜けないの?と思います。

28武田信玄

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。

義信可哀想

信玄は長男・義信を廃嫡しています。その結果義信は自害してるし、その妻・嶺松院は今川に戻されるし、御家の為とはいえあまり信玄は好きではありません。

28松永久秀

松永久秀

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代〜安土桃山時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、久秀の甥で松永家の姓を継承した永種(貞徳の父)。

29山内一豊

山内一豊

山内 一豊(やまうち かずとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。 父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の長男・忠義(第2代藩主)を養子とした。豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。

千代がいなかったら・・・・・・

妻の千代がいなかったらたぶん名を轟かせていなかったと思います。あと千代がいなくても頑張ってほしいと思います。いつも千代に助けられているから。

嫁さんの逸話

吉川元春の妻・新庄局は、ブサイクだったそうです。

31今川義元

今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。

誰?

名前は知ってるけど何したかは知らない。

33毛利元就

毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。

妻の話

正妻・妙玖が死ぬまで側室を持たなかったって言われてますけど、死ぬまでだから、妻が怖かったんじゃないの?自分でも毛利元就が妙玖を大事にしてたのは分かってます。だけどこう思ってしまう。毛利元就、毛利元就の妻、毛利元就ファンの方すいません。

嫌い

嫌いとしか言いようがない。理由は上杉謙信と恋人の伊勢姫の仲を引き裂いたからです。あくまでそれが正しいのか分かりませんが・・・・・・・・

35徳川家康

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。

好きではない

徳川家康は・・・・・・幼少期は可哀想と思えます。織田・今川に人質になっていますから。だけど・・・・・・特に信康と瀬名のことは同情できません。まだ謀反とかで処罰するのはいいけど、わざわざ信長に許しをいただいてなんて貧弱すぎる。でもまだ秀吉よりはマシだと思います。

36豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。

朝鮮出兵は納得いかない

普通、織田家の者が天下を継ぐと思いますが、秀吉は勝手に自分信長の後継者って決めて、結果信長から天下奪ってるので好きではありません。
また、朝鮮出兵ではたくさんの兵を失っているにも関わらず、自分は醍醐の花見で秀頼や側室たちと遊んでますよね。そこが納得いきません。

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