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歴史マニア(中2)さんの「戦国武将最強ランキング」

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更新日: 2024/04/02

歴史マニア(中2)

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ランキング結果

1上杉謙信

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。

甲相駿三国同盟、三好、松永、織田を圧倒した最強戦国武将

上杉謙信は、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉のように高い軍事力で相手を圧倒するわけではありません。では、どこが強いのか。上杉謙信は、冷静で負けない方法を熟知している戦国武将だと思いました。謙信は、決して無理をしない戦国武将でした。川中島の戦いでも、武田軍を決して深追いしませんでした。これは、領地や家臣たちに利害がないかということを考えた結果だと、史料からのデータが残っているそうです。ちなみに、信玄でさえも、謙信とまともに戦うことを嫌ったそうです。また、第4次川中島合戦では、武田軍の多くの敵将を打ち破り、総大将である信玄をも負傷させたのだから、ほぼ謙信が勝ったと言っても過言ではありません。初陣も見事でした。少数の城兵を二手に分け、一方の隊が敵本隊の背後を奇襲し、城内から本隊を突撃させることで、見事に勝利を収めたのです(栃尾城の戦い)。兄、晴景との戦いでは、晴景軍が小荷駄を連れていないことに注目し、今後の晴景軍の動きを予測。そのまま夜襲で大勝利しました。また、手取川の戦いでは織田軍に夜襲を仕掛けてボコボコにしています。こんな事ができるのは、謙信の冷静さがあってこそだと思います。このことから、上杉謙信は最強だと思います。また、甲相駿三国同盟と戦いながら、やろうと思えば三好、松永を蚊を叩くほどの苦労もなく京から駆逐できるということです。現に、松永は、謙信のご機嫌伺いをしているほどです。さらにやばいのは、北条と戦った時、参戦した関東の武将が北条と戦い続けていれば、そのまま北条を滅ぼし、今川氏真を滅ぼし、挟み撃ちで信玄率いる甲州軍団を滅ぼし、その上で織田信長をも倒し、楽々と天下を取れていたということです。

1本多忠勝

本多忠勝

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

徳川四天王の中で1番強い

本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、井伊直政の4人が徳川四天王と呼ばれる人物ですが、その中で、本多忠勝は、最も武勇に優れた武将です。そして、驚くべきなのはその戦績です。生涯で57回もの戦いに参戦しているのに、一回も大した傷をつけられたことがないということです。さらに驚くべきは、ほとんどの戦いで最前線で戦っているということです。三方ヶ原の戦いでは、2万7000人の武田軍に対し、わずか3000人で進軍を止めました。こういうタイプの武将は、戦国初期には強い武将として君臨しますが、後期になると、あまり芽吹かないことが多いです。しかし、忠勝は違います。関ヶ原の戦いまで生き抜き、伊勢桑名15万石の大名にまで出世した武将なのです。

1真田昌幸

真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある

天才的知能

上田城築城!色々奇襲を仕掛けられる仕組みや、ほかの城と連携し、挟み撃ちに追い込み、二万を超える徳川軍に対し、たった三千で勝利したりしました。おびき寄せるという真田戦法の基礎を作った。

1徳川家康

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府し征夷大将軍となる。三英傑のひとり。

戦国を生きる方法を知っている武将

人生を戦場として生きるということに長けた武将だと思います。チャンスが来るまで待つ姿勢も戦国を生きる上で大切なことだし、自分を負かした相手の戦略を利用し、戦いに取り入れるなど、戦国を生きる方法を熟知している武将だと思います。ここまでは、ほかの大名も徹底的にやってておかしくないことですよね。しかし、家康はそれだけではありません。ほかの大名たちに比べてとても健康に気を使っていたのです。この待つ姿勢と健康に対する取り組み、この二つが合わさって家康はほかの大名たちより長く生き残り、天下を横取りすることに成功したのだと思います。今川の人質時代だった時の桶狭間の戦いでは、義元より信長に警戒されていたので、この時点で義元より格上確定。姉川、長篠の戦いでも難なく勝利し、負けたのは三方ヶ原だけという化け物です。小牧、長久手の戦いでは、秀吉の別働隊が三河に攻め込んでいることを知り、別働隊を壊滅させ、池田恒興と森長可を倒したりして、秀吉軍10万に対し、1万6千の兵で散々に蹴散らしてしまいました。そして、徳川家を守るために最後は降伏しました。さらに関ヶ原の戦い。七将による三成襲撃事件の際、家康はわざと三成を生かしておきました。三成を生かしておくことで家康には2つのメリットがあったのです。一つ目は、三成を餌にして七将をはじめとする豊臣恩顧の武将を操れること、もう一つは、三成が自分の敵を一つにまとめてくれることです。三成が自分の天下取りを邪魔する敵を集めてくれれば、戦で一気に滅ぼすことができるのです。さらに、手紙を使って味方を増やしたりして、三成らを蹴散らしました。そして家康最後の戦いである大坂の陣。家康は、秀頼が奉納した方広寺の鐘を口実にして戦いを起こします。冬の陣では、真田丸に苦戦するも、和睦の際に掘り埋め作戦で真田丸を取り壊したあと、夏の陣でついに豊臣家を滅ぼしてしまいました。こうした頭脳に加え徳川四天王などの優秀な家臣までいて、その強力な家臣団を束ねる統率力の高さも考えると、間違いなく戦国最強なのです(現に、三方ヶ原の戦いでは、夏目吉信が、自ら名乗り出て、家康を守るための囮として、武田軍に突撃し、戦死している)。また、三方ヶ原の戦いで家康の強さを決める人がいますが、家康は、三方ヶ原の戦いから学習して強くなったので、三方ヶ原の戦いだけで家康の強さを決めるのは違うと思います。

1島津義弘

島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[注釈 2]と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている。

戦国無双

東軍の大軍をまさかの突破!しんがりたちの活躍があってこその敵中突破だと思います。しんがりたちは命知らずで奮闘!死の確率が高いにも関わらず、しんがりたちが逃げなかったのは、絆があるからだと思います。これが島津の統率力の力なのです。加えて井伊直政を死亡させ、本多忠勝を落馬させ、8万の徳川軍を300人で敵中突破!ぶち抜いて薩摩に帰還するなど信じられない強さを持ちます。これに関して馬鹿という人がいますが、状況的に周囲はすべて敵軍だったのであって、命懸けの敵中突破しか方法がなかったと思います。やはり関ヶ原が有名ですが、もう一つ島津の統率力、戦強さがわかる戦いがあります。それが秀吉による文禄、慶長の役(豊臣秀吉による朝鮮出兵)です。朝鮮では、とてつもない寒さで凍死者が相次ぎました。しかし、島津軍は凍死者がいませんでした。なぜなら、位の高い人、低い人関係なく暖を取っていたからです。このエピソードでも、義弘の統率力の高さが伺えます。さらに、戦強さの面では、中国王朝「明」20万にたった6000で勝利。戦いには、宇喜多秀家らの諸大名たちも複数参加していたのですが、島津軍は、数人しか死者を出さず、韓国の英雄「李舜臣」を撃ち殺し、20万の敵兵のうち8万を殺すという化け物っぷり。しかも見知らぬ土地で不利な状態です。まさに戦国無双です。個人的には、上杉、徳川、本田、立花に並ぶレベルで強いと思います。

奥州の大名

奥州の大名として名を馳せ、伊達の次の名門と呼ばれる武将。しかし、実力的には伊達の上を行っているとんでもない武将です。近隣の戦国大名との関係性が非常に強く、それを利用し、同盟を結ぶことで後ろを守るなどの大きなアドバンテージを持っています。それ故に、家臣からも慕われ、人望が厚い人物でもあるのです。しかし、彼の本質は謀略の天才。北条早雲タイプですね。上山城の戦いで、城主の上山満兼の重臣である里見義近と里見民部を謀反に導き、満兼を討伐させることに成功。さらには、大宝寺義氏と戦った尾浦城の変でも、重臣の東禅寺義長を謀反に導き、義氏を討伐。その後、義長を傘下に収めることで、実質的な支配力を手に入れました。さらに、織田信長への接近を図るなど、外交によって有利性を得ようとした白鳥長久に対しては、まず、長久の娘を嫡男である義康の正室に迎え入れることで油断させ、次に自身が重病にかかったと嘘をつく。そして、長久に対して、「死後、義康の後見をお願いしたい」と弱気な手紙を出して見舞いに来させ、事前に仕組んであった刀で義久を暗殺。大規模な戦いになれば兵の犠牲も招くことを考慮した上に、人望が厚いことを利用した非常に高度な戦術であり、義光以外でできるとすれば、北条早雲だけでしょう。また、関ヶ原の戦いでは、直江兼続率いる約2万人の上杉軍と、約7000人の兵で戦い、互角に戦うなどの戦強さもあり、東軍が勝利したことを知った直江兼続ら上杉軍が撤退した際も、伊達政宗と協力して上杉軍を追い詰めている。この戦功により、出羽国と庄内地方の所有を認められた義光は、約57万石の大大名となった。よって義光は最強。

1立花宗茂

立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

最強

戦で一回も負けておらず、東の本田、西の立花と言われるほどの強さです(東の本田とはおそらく忠勝をさす)。ちなみに関ヶ原は宗茂の指示じゃないです。つまり立花宗茂は最強です。

1宇佐美定満

宇佐美定満

宇佐美 定満(うさみ さだみつ)は、戦国時代の武将。越後国(現在の新潟県)において琵琶島城(現在の柏崎市元城町付近)に勢力を持っていたとされている。伊豆国宇佐美荘(現在の静岡県伊東市宇佐美)を発祥とし、越後守護上杉家の重臣を務めた宇佐美氏出身。

上杉謙信に戦の駆け引きを教えた

あの最強の上杉謙信に駆け引きを教えて、その後も軍師として活躍した。この人がいなければ謙信はあまり強くなっていなかった。つまり宇佐美は最強。そして第4次川中島合戦では魚鱗の陣を組んでから車懸かりの陣にするという山本勘助を上回る戦略で前半の勝利をもたらした。犠牲が多すぎると言って武田信玄が上杉謙信と戦うことをやめたきっかけである。

1雑賀孫市

雑賀孫市

鈴木 孫一(すずき まごいち)は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一という名でも知られる。表記ゆれとして「孫市」の名も知られる。

最強すぎる知将。化け物

たった2000人の兵で100000人の織田軍を難なく圧倒した化け物。橋に罠を仕掛け、織田軍の馬の足をとって動けなくしてから鉄砲で滅多打ちにする戦略はまさに知将。なんでこんなに順位低いのか意味わからん。

1北条早雲

北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

最初にして最強の戦国大名

北条早雲は謀略の天才だと言えると思います。茶々丸討伐の際には、敵の兵士に好条件を出して、謀反を起こさせ、茶々丸が孤立したところで圧勝。小田原城奪取の際には、扇谷上杉氏の混乱を見逃さずに、うまく利用しようと画策したのです。まず、大森氏の治める小田原城を奪取するため、大森藤頼に進物を贈り、親しく歓談するように持って行きます。当然、藤頼には早雲を疑う余地はありません。そのため、早雲の「鹿狩り中に鹿が小田原城の裏に行ったので一旦領地に入れさせてほしい」という早雲の話も疑うことはしませんでした。しかし、これは小田原城を奪うための早雲の策略でした。早雲は、小田原城の裏から奇襲を仕掛け、小田原城を奪い取ったのです。しかし、早雲も勢力を伸ばすことが困難になります。対立していた扇谷上杉氏と山内上杉氏が和解したからです。それでも諦めずに勢力を伸ばし、最終的に相模を統一しました。これが出来たのは、やはり早雲の実力が高く、戦強さがあったからでしょう。そんな謀略の天才である早雲ですが、人望も厚く、敵兵でも降伏すれば味方にし、しっかりと領民のことを思いやる政治を行った大名です。また、早雲は家臣や領民からも尊敬され、他の国の農民も「早雲殿の国になればいいのに」と羨んだと言われているため、謀反も少なく、慕われていた武将だと思います。よって、早雲は最強です。

2武田信玄

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。

天下人をも破り、信長ですら追い込まれたという最強の虎!

武田信玄は、富国、強兵の両面で最強の武将だと思います。そして、信濃制圧の際の敗北で、戦国の厳しさを知ってる武将だと思います。洪水に悩まされてきた甲斐国ですが、信玄堤により解決!強兵の面では、最初は統率力がなく、家臣たちが命令違反を起こしたため、村上義清にあっけなく負けました。そこで、家臣を徹底的に変えました。そんな信玄の強みは、何と言っても情報収集の早さです。その戦法は、現在のアメリカ軍の戦法と似ていて、作戦の大方針を信玄が決め、細かい判断は現場が決めるというものです。これにより、情報の伝達、家臣の行動が早くなりました。これをミッションコマンドと言います。また、陣形をつくるのもかなり上手いです。信玄の強さが最も出たのが、武田対北条の三増峠の戦いと、武田対徳川の三方ヶ原の戦いです。三増峠の戦いでは、武田軍は北条軍に挟み撃ちにされていました。そこで、山県に背後にいる北条軍との戦いを任せたのです。しかし、山県がいないことで、武田軍は劣勢になります。しかし、背後にいる軍勢と戦っていたはずの山県が戻ってきたのです。実は、山県は背後にいる軍勢と戦うための十分な軍勢を残し、本隊に加勢しに行ったのです。その結果、形勢は逆転、武田軍が大勝を収めたのです。まさに、ミッションコマンドがもたらした勝利となったのです。三方ヶ原の戦いでは、信玄は魚鱗の陣を組み、ミッションコマンドを最大限に引き出せるようにしたのです。というか、まず、三方ヶ原まで持ち込む展開が上手く、浜松城をわざと素通りし、陣形が素早く展開できる、つまり、信玄にとって有利な場所まで誘導したのです。こんな戦法ができるのは、信玄の統率力と家臣との信頼関係があってこそです。三方ヶ原で家康を破ったことで、信長は、一時的に追い込まれました。一つだけ減点要素になったのは、第4次川中島合戦で山本勘助などの家臣を何人か失い、前半ボコボコにされたところですかね。

統率力

恐ろしい統率力で、九州一の勢力、統率力を持っていました。さすがに秀吉のえげつない大軍には負けました(当たり前です)。しかし、秀吉と同等の兵力なら、切れることのない絆で義久が圧勝していたでしょう(秀吉が兵力少なかったら弱すぎるとも言える)。

2大谷吉継

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。

知略、駆け引きにおいて超強い

実は、関ヶ原の戦いでは、小早川が裏切ることがわかっていたので、脇坂安治と協力して小早川ロックを作ろうとしました。脇坂まで裏切ってしまったので失敗して小早川の大軍に討たれたものの、成功していれば勝敗は逆だったと思います。

武田氏最強の武将

長篠の戦いで戦死するまで一回も手傷を負っていない。信玄も認めるほど優秀な信玄の家臣。

3真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

家康を追い詰める!

大阪冬夏どちらでも大活躍。冬の陣では、真田丸を築き、相手を挑発しておびき寄せ、堀に落としたところを一気に鉄砲で撃ちまくる!実は大阪冬の陣で、徳川軍にでた犠牲者の8割は、この真田丸によるものなんです!夏の陣では、命知らずの攻撃で、徳川家康をあと一歩まで追い詰めました!結果的には討ち取られたものの、恐ろしい勇気を持っている武将だと思います。

3伊達政宗

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

富国に長けた大名

政宗は、富国に長けた大名で、仙台藩を見事に発展させ、いまもそれが続いています。また、秀吉相手には降伏し、伊達家の未来を守りました。スペインとの同盟も、家康や秀忠がいなかったら成功していたということから、外交力も群を抜いていると思います。

物事を有利に進める能力が高い

秀忠は、高い軍事力で相手を圧倒するわけではないです(上田合戦を見てもそれは明確)。なぜ強いかと言うと、大名を支配する能力があるからです。幕府に逆らう大名には罰を与えると言う方法で裏切れないようにしたのです。

5加藤清正

加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。

築城力最強

熊本城を築城した武将で、賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳七本槍に選ばれていた人物です。熊本城は、桝形虎口を2つ連結させたり、城内に食べられる木の実を生やしたり、最強と言われる城です。

5井伊直政

井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

文武両道

武勇にも優れていますが、外交の腕もピカイチで、関ヶ原の戦いでは、多くの大名を味方につけました。

5酒井忠次

酒井忠次

酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。

徳川四天王のリーダー

酒井忠次は、徳川家を守った人物である。家康の大ピンチ、三河一向一揆で一揆軍を押さえつけていったすごい人。また、一向一揆の後、家臣たちをまとめるリーダー性からも高い評価ができます。この人がいなかったら徳川家の未来はなかった。

6北条氏康

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。

関東最強の戦国武将

武田信玄と互角に戦った上杉謙信を退けた。と言っても、信玄が出陣したから謙信は退いただけで、おそらく武田の出陣が遅れていたら滅んでいた。だが、謙信相手に長い間耐え切った実力は本物。

7竹中重治(竹中半兵衛)

竹中重治(竹中半兵衛)

竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。

最強の頭脳

稲葉山城をたった17人でうばった。また、秀吉の軍師になり、秀吉に知恵を授けました。また、小谷城攻略の時には、本丸と小丸を分断させるため、真ん中にある京極丸を落とす作戦を打ち出したりし、大活躍しました。この男がいなければ秀吉が天下統一するのは不可能だったはず。

7豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。

最強の外交武将

秀吉は、個人的な軍事力で相手を圧倒するわけではありません。どこが強いのかと言うと、圧倒的な外交力です。人たらしと言われるほどの話上手で、徳川家康や、竹中半兵衛をも味方につけたのです。

さすが徳川四天王!

強い
理由1長久手の戦いで別働隊壊滅!
理由2伊賀越えでしっかりと家康を守った!

強い

信玄に2回勝利した。まず、信玄の敗北経験の3回のうちの2回がこの人だってことがすごい。

9毛利元就

毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。

中国地方の覇者

中国地方統一!でも天下は無理。

10織田信長

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

経済力で最強だが、戦の采配が下手で統率力が低い

足利義昭を守って京に入り室町幕府の将軍に任命させたとき、義昭から恩賞として新しい領地か副将軍の座を与えることを提案されていましたが、なんと信長は2つとも拒否!信長はその代わり、堺、草津、大津を直轄とすることを許してもらいたいと言ったのです。そのおかげで、莫大な関税収益を得るすることができたり、輸入された物を独占し、そこからなる経済封鎖が可能になりました。また、経済封鎖によって、長篠の戦いに大きなアドバンテージができました。なんと武田軍は、鉄砲の弾薬を手に入れることができなかったのです。その結果、織田、徳川連合軍は、武田軍をフルボッコにしたのです。つまり、信長は経済力で軍事力を強化したり、相手を弱体化させ、アドバンテージをつくって、周囲の大名を圧倒していたのです。つまり、信長は経済力に優れた大名ということですね。しかし、戦の采配は下手で、姉川の戦いでは、徳川軍の援軍がこなければ負けていました。そして和歌川の戦いでは10万の大軍がいたのにたった2000の雑賀孫市にボロ負けする始末。そして統率力が低く、そのせいで光秀に討ち取られました。経済力は最強ですが、戦の采配の下手さと統率力の低さ、相殺して50点です。

10前田利家

前田利家

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に加賀百万石の祖とも称されるが、前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。

槍の使い手

信長に槍の使い手として重宝された。

10太原雪斎

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太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。

雪斎先生!

この人いなかったら無教養で家康は育っていた!

かわいそう

身内である秀吉に切腹させられた。かわいそすぎる(泣)

10直江兼続

直江兼続

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。直江兼続(樋口与六)はお船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えた。

直江状

直江状で家康を反論するのはスカッとするし、そのおかげで上杉家は滅びなかったのだと思うけど、それが関ヶ原の戦いの火種になったことも考えると微妙です。

最弱でもあり最強でもある

無類の戦下手で知られ、居城である小田城を何度も奪われる始末。しかし、何回も負けているのに死ななかったことや、諦めずに小田城を奪い返したことなどを踏まえると、ある意味最強でもある。

10山本勘助

山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。

上杉と宇佐美の戦術に負けた

弱いと思います。

11柴田勝家

柴田勝家

柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。

単純に弱い

墨俣築城失敗するし、新参者の秀吉より信長に注目されてないし、さらには秀吉にぶっ倒されたし弱すぎる。ついでに鉄砲隊あるのに謙信に夜襲仕掛けられてぼろ負けした(これに関しては謙信が強すぎるとも言える)。

11今川義元

今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。

義元は弱い

義元は弱い!
理由1信長舐めすぎ!油断しすぎです!!!
理由2桶狭間の戦いで少数の信長軍に大大大大敗北!

11明智光秀

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされる。

弱い!!!!!!

信長に勝ったけど奇襲で勝つの当たり前だし結局信長は自害で死んだし落ち武者狩りに殺されてるし(秀吉軍に殺されている説もある。)
武士なんだからせめて農民には勝てや!弱すぎだろ!

11石田三成

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

さすがに弱すぎる

三成は、負けると分かっていて大谷吉継に、家康と戦わないことをすすめられていたのに、無理に戦って関ヶ原の戦いでぼろ負けした戦国最弱武将です。秀吉以外に信頼されていないし、武断派の武将に襲われたり、関ヶ原の戦いで裏切り者が出たことから、三成は統率力も武勇もないです。三成の長所なし!!!!

11武田勝頼

武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。

戦国最弱

家臣の意見も聞かず、長篠の戦いで大敗北。自分で武田家を滅ぼす戦いの火種をつくってしまったのだから、低評価です。

政治に目を向けないやばい人

竹中半兵衛に城を奪われるし秀吉の策にまんまと引っかかる。あまりに弱いし頭悪い。

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