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1位上杉謙信
1位本多忠勝
徳川四天王の中で1番強い
本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、井伊直政の4人が徳川四天王と呼ばれる人物ですが、その中で、本多忠勝は、最も武勇に優れた武将です。そして、驚くべきなのはその戦績です。生涯で57回もの戦いに参戦しているのに、一回も大した傷をつけられたことがないということです。さらに驚くべきは、ほとんどの戦いで最前線で戦っているということです。三方ヶ原の戦いでは、2万7000人の武田軍に対し、わずか3000人で進軍を止めました。こういうタイプの武将は、戦国初期には強い武将として君臨しますが、後期になると、あまり芽吹かないことが多いです。しかし、忠勝は違います。関ヶ原の戦いまで生き抜き、伊勢桑名15万石の大名にまで出世した武将なのです。
1位真田昌幸
真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。他にもお初という織田信長の使いに入った真田の子という説もある
1位徳川家康
戦国を生きる方法を知っている武将
人生を戦場として生きるということに長けた武将だと思います。チャンスが来るまで待つ姿勢も戦国を生きる上で大切なことだし、自分を負かした相手の戦略を利用し、戦いに取り入れるなど、戦国を生きる方法を熟知している武将だと思います。ここまでは、ほかの大名も徹底的にやってておかしくないことですよね。しかし、家康はそれだけではありません。ほかの大名たちに比べてとても健康に気を使っていたのです。この待つ姿勢と健康に対する取り組み、この二つが合わさって家康はほかの大名たちより長く生き残り、天下を横取りすることに成功したのだと思います。今川の人質時代だった時の桶狭間の戦いでは、義元より信長に警戒されていたので、この時点で義元より格上確定。姉川、長篠の戦いでも難なく勝利し、負けたのは三方ヶ原だけという化け物です。小牧、長久手の戦いでは、秀吉の別働隊が三河に攻め込んでいることを知り、別働隊を壊滅させ、池田恒興と森長可を倒したりして、秀吉軍10万に対し、1万6千の兵で散々に蹴散らしてしまいました。そして、徳川家を守るために最後は降伏しました。さらに関ヶ原の戦い。七将による三成襲撃事件の際、家康はわざと三成を生かしておきました。三成を生かしておくことで家康には2つのメリットがあったのです。一つ目は、三成を餌にして七将をはじめとする豊臣恩顧の武将を操れること、もう一つは、三成が自分の敵を一つにまとめてくれることです。三成が自分の天下取りを邪魔する敵を集めてくれれば、戦で一気に滅ぼすことができるのです。さらに、手紙を使って味方を増やしたりして、三成らを蹴散らしました。そして家康最後の戦いである大坂の陣。家康は、秀頼が奉納した方広寺の鐘を口実にして戦いを起こします。冬の陣では、真田丸に苦戦するも、和睦の際に掘り埋め作戦で真田丸を取り壊したあと、夏の陣でついに豊臣家を滅ぼしてしまいました。こうした頭脳に加え徳川四天王などの優秀な家臣までいて、その強力な家臣団を束ねる統率力の高さも考えると、間違いなく戦国最強なのです(現に、三方ヶ原の戦いでは、夏目吉信が、自ら名乗り出て、家康を守るための囮として、武田軍に突撃し、戦死している)。また、三方ヶ原の戦いで家康の強さを決める人がいますが、家康は、三方ヶ原の戦いから学習して強くなったので、三方ヶ原の戦いだけで家康の強さを決めるのは違うと思います。
1位島津義弘
戦国無双
東軍の大軍をまさかの突破!しんがりたちの活躍があってこその敵中突破だと思います。しんがりたちは命知らずで奮闘!死の確率が高いにも関わらず、しんがりたちが逃げなかったのは、絆があるからだと思います。これが島津の統率力の力なのです。加えて井伊直政を死亡させ、本多忠勝を落馬させ、8万の徳川軍を300人で敵中突破!ぶち抜いて薩摩に帰還するなど信じられない強さを持ちます。これに関して馬鹿という人がいますが、状況的に周囲はすべて敵軍だったのであって、命懸けの敵中突破しか方法がなかったと思います。やはり関ヶ原が有名ですが、もう一つ島津の統率力、戦強さがわかる戦いがあります。それが秀吉による文禄、慶長の役(豊臣秀吉による朝鮮出兵)です。朝鮮では、とてつもない寒さで凍死者が相次ぎました。しかし、島津軍は凍死者がいませんでした。なぜなら、位の高い人、低い人関係なく暖を取っていたからです。このエピソードでも、義弘の統率力の高さが伺えます。さらに、戦強さの面では、中国王朝「明」20万にたった6000で勝利。戦いには、宇喜多秀家らの諸大名たちも複数参加していたのですが、島津軍は、数人しか死者を出さず、韓国の英雄「李舜臣」を撃ち殺し、20万の敵兵のうち8万を殺すという化け物っぷり。しかも見知らぬ土地で不利な状態です。まさに戦国無双です。個人的には、上杉、徳川、本田、立花に並ぶレベルで強いと思います。
1位最上義光
奥州の大名
奥州の大名として名を馳せ、伊達の次の名門と呼ばれる武将。しかし、実力的には伊達の上を行っているとんでもない武将です。近隣の戦国大名との関係性が非常に強く、それを利用し、同盟を結ぶことで後ろを守るなどの大きなアドバンテージを持っています。それ故に、家臣からも慕われ、人望が厚い人物でもあるのです。しかし、彼の本質は謀略の天才。北条早雲タイプですね。上山城の戦いで、城主の上山満兼の重臣である里見義近と里見民部を謀反に導き、満兼を討伐させることに成功。さらには、大宝寺義氏と戦った尾浦城の変でも、重臣の東禅寺義長を謀反に導き、義氏を討伐。その後、義長を傘下に収めることで、実質的な支配力を手に入れました。さらに、織田信長への接近を図るなど、外交によって有利性を得ようとした白鳥長久に対しては、まず、長久の娘を嫡男である義康の正室に迎え入れることで油断させ、次に自身が重病にかかったと嘘をつく。そして、長久に対して、「死後、義康の後見をお願いしたい」と弱気な手紙を出して見舞いに来させ、事前に仕組んであった刀で義久を暗殺。大規模な戦いになれば兵の犠牲も招くことを考慮した上に、人望が厚いことを利用した非常に高度な戦術であり、義光以外でできるとすれば、北条早雲だけでしょう。また、関ヶ原の戦いでは、直江兼続率いる約2万人の上杉軍と、約7000人の兵で戦い、互角に戦うなどの戦強さもあり、東軍が勝利したことを知った直江兼続ら上杉軍が撤退した際も、伊達政宗と協力して上杉軍を追い詰めている。この戦功により、出羽国と庄内地方の所有を認められた義光は、約57万石の大大名となった。よって義光は最強。
1位立花宗茂
1位宇佐美定満
上杉謙信に戦の駆け引きを教えた
あの最強の上杉謙信に駆け引きを教えて、その後も軍師として活躍した。この人がいなければ謙信はあまり強くなっていなかった。つまり宇佐美は最強。そして第4次川中島合戦では魚鱗の陣を組んでから車懸かりの陣にするという山本勘助を上回る戦略で前半の勝利をもたらした。犠牲が多すぎると言って武田信玄が上杉謙信と戦うことをやめたきっかけである。
1位雑賀孫市
最強すぎる知将。化け物
たった2000人の兵で100000人の織田軍を難なく圧倒した化け物。橋に罠を仕掛け、織田軍の馬の足をとって動けなくしてから鉄砲で滅多打ちにする戦略はまさに知将。なんでこんなに順位低いのか意味わからん。
1位北条早雲
最初にして最強の戦国大名
北条早雲は謀略の天才だと言えると思います。茶々丸討伐の際には、敵の兵士に好条件を出して、謀反を起こさせ、茶々丸が孤立したところで圧勝。小田原城奪取の際には、扇谷上杉氏の混乱を見逃さずに、うまく利用しようと画策したのです。まず、大森氏の治める小田原城を奪取するため、大森藤頼に進物を贈り、親しく歓談するように持って行きます。当然、藤頼には早雲を疑う余地はありません。そのため、早雲の「鹿狩り中に鹿が小田原城の裏に行ったので一旦領地に入れさせてほしい」という早雲の話も疑うことはしませんでした。しかし、これは小田原城を奪うための早雲の策略でした。早雲は、小田原城の裏から奇襲を仕掛け、小田原城を奪い取ったのです。しかし、早雲も勢力を伸ばすことが困難になります。対立していた扇谷上杉氏と山内上杉氏が和解したからです。それでも諦めずに勢力を伸ばし、最終的に相模を統一しました。これが出来たのは、やはり早雲の実力が高く、戦強さがあったからでしょう。そんな謀略の天才である早雲ですが、人望も厚く、敵兵でも降伏すれば味方にし、しっかりと領民のことを思いやる政治を行った大名です。また、早雲は家臣や領民からも尊敬され、他の国の農民も「早雲殿の国になればいいのに」と羨んだと言われているため、謀反も少なく、慕われていた武将だと思います。よって、早雲は最強です。
2位武田信玄
天下人をも破り、信長ですら追い込まれたという最強の虎!
武田信玄は、富国、強兵の両面で最強の武将だと思います。そして、信濃制圧の際の敗北で、戦国の厳しさを知ってる武将だと思います。洪水に悩まされてきた甲斐国ですが、信玄堤により解決!強兵の面では、最初は統率力がなく、家臣たちが命令違反を起こしたため、村上義清にあっけなく負けました。そこで、家臣を徹底的に変えました。そんな信玄の強みは、何と言っても情報収集の早さです。その戦法は、現在のアメリカ軍の戦法と似ていて、作戦の大方針を信玄が決め、細かい判断は現場が決めるというものです。これにより、情報の伝達、家臣の行動が早くなりました。これをミッションコマンドと言います。また、陣形をつくるのもかなり上手いです。信玄の強さが最も出たのが、武田対北条の三増峠の戦いと、武田対徳川の三方ヶ原の戦いです。三増峠の戦いでは、武田軍は北条軍に挟み撃ちにされていました。そこで、山県に背後にいる北条軍との戦いを任せたのです。しかし、山県がいないことで、武田軍は劣勢になります。しかし、背後にいる軍勢と戦っていたはずの山県が戻ってきたのです。実は、山県は背後にいる軍勢と戦うための十分な軍勢を残し、本隊に加勢しに行ったのです。その結果、形勢は逆転、武田軍が大勝を収めたのです。まさに、ミッションコマンドがもたらした勝利となったのです。三方ヶ原の戦いでは、信玄は魚鱗の陣を組み、ミッションコマンドを最大限に引き出せるようにしたのです。というか、まず、三方ヶ原まで持ち込む展開が上手く、浜松城をわざと素通りし、陣形が素早く展開できる、つまり、信玄にとって有利な場所まで誘導したのです。こんな戦法ができるのは、信玄の統率力と家臣との信頼関係があってこそです。三方ヶ原で家康を破ったことで、信長は、一時的に追い込まれました。一つだけ減点要素になったのは、第4次川中島合戦で山本勘助などの家臣を何人か失い、前半ボコボコにされたところですかね。
2位島津義久
統率力
恐ろしい統率力で、九州一の勢力、統率力を持っていました。さすがに秀吉のえげつない大軍には負けました(当たり前です)。しかし、秀吉と同等の兵力なら、切れることのない絆で義久が圧勝していたでしょう(秀吉が兵力少なかったら弱すぎるとも言える)。
2位大谷吉継
知略、駆け引きにおいて超強い
実は、関ヶ原の戦いでは、小早川が裏切ることがわかっていたので、脇坂安治と協力して小早川ロックを作ろうとしました。脇坂まで裏切ってしまったので失敗して小早川の大軍に討たれたものの、成功していれば勝敗は逆だったと思います。
3位真田幸村(真田信繁)
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。
家康を追い詰める!
大阪冬夏どちらでも大活躍。冬の陣では、真田丸を築き、相手を挑発しておびき寄せ、堀に落としたところを一気に鉄砲で撃ちまくる!実は大阪冬の陣で、徳川軍にでた犠牲者の8割は、この真田丸によるものなんです!夏の陣では、命知らずの攻撃で、徳川家康をあと一歩まで追い詰めました!結果的には討ち取られたものの、恐ろしい勇気を持っている武将だと思います。
3位伊達政宗
富国に長けた大名
政宗は、富国に長けた大名で、仙台藩を見事に発展させ、いまもそれが続いています。また、秀吉相手には降伏し、伊達家の未来を守りました。スペインとの同盟も、家康や秀忠がいなかったら成功していたということから、外交力も群を抜いていると思います。
4位徳川秀忠
物事を有利に進める能力が高い
秀忠は、高い軍事力で相手を圧倒するわけではないです(上田合戦を見てもそれは明確)。なぜ強いかと言うと、大名を支配する能力があるからです。幕府に逆らう大名には罰を与えると言う方法で裏切れないようにしたのです。
5位加藤清正
5位井伊直政
5位酒井忠次
徳川四天王のリーダー
酒井忠次は、徳川家を守った人物である。家康の大ピンチ、三河一向一揆で一揆軍を押さえつけていったすごい人。また、一向一揆の後、家臣たちをまとめるリーダー性からも高い評価ができます。この人がいなかったら徳川家の未来はなかった。
6位北条氏康
関東最強の戦国武将
武田信玄と互角に戦った上杉謙信を退けた。と言っても、信玄が出陣したから謙信は退いただけで、おそらく武田の出陣が遅れていたら滅んでいた。だが、謙信相手に長い間耐え切った実力は本物。
最強の頭脳
稲葉山城をたった17人でうばった。また、秀吉の軍師になり、秀吉に知恵を授けました。また、小谷城攻略の時には、本丸と小丸を分断させるため、真ん中にある京極丸を落とす作戦を打ち出したりし、大活躍しました。この男がいなければ秀吉が天下統一するのは不可能だったはず。
7位豊臣秀吉
最強の外交武将
秀吉は、個人的な軍事力で相手を圧倒するわけではありません。どこが強いのかと言うと、圧倒的な外交力です。人たらしと言われるほどの話上手で、徳川家康や、竹中半兵衛をも味方につけたのです。
9位毛利元就
10位織田信長
経済力で最強だが、戦の采配が下手で統率力が低い
足利義昭を守って京に入り室町幕府の将軍に任命させたとき、義昭から恩賞として新しい領地か副将軍の座を与えることを提案されていましたが、なんと信長は2つとも拒否!信長はその代わり、堺、草津、大津を直轄とすることを許してもらいたいと言ったのです。そのおかげで、莫大な関税収益を得るすることができたり、輸入された物を独占し、そこからなる経済封鎖が可能になりました。また、経済封鎖によって、長篠の戦いに大きなアドバンテージができました。なんと武田軍は、鉄砲の弾薬を手に入れることができなかったのです。その結果、織田、徳川連合軍は、武田軍をフルボッコにしたのです。つまり、信長は経済力で軍事力を強化したり、相手を弱体化させ、アドバンテージをつくって、周囲の大名を圧倒していたのです。つまり、信長は経済力に優れた大名ということですね。しかし、戦の采配は下手で、姉川の戦いでは、徳川軍の援軍がこなければ負けていました。そして和歌川の戦いでは10万の大軍がいたのにたった2000の雑賀孫市にボロ負けする始末。そして統率力が低く、そのせいで光秀に討ち取られました。経済力は最強ですが、戦の采配の下手さと統率力の低さ、相殺して50点です。
10位前田利家
10位太原雪斎
10位直江兼続
10位小田氏治
最弱でもあり最強でもある
無類の戦下手で知られ、居城である小田城を何度も奪われる始末。しかし、何回も負けているのに死ななかったことや、諦めずに小田城を奪い返したことなどを踏まえると、ある意味最強でもある。
10位山本勘助
11位柴田勝家
単純に弱い
墨俣築城失敗するし、新参者の秀吉より信長に注目されてないし、さらには秀吉にぶっ倒されたし弱すぎる。ついでに鉄砲隊あるのに謙信に夜襲仕掛けられてぼろ負けした(これに関しては謙信が強すぎるとも言える)。
11位今川義元
11位明智光秀
11位石田三成
さすがに弱すぎる
三成は、負けると分かっていて大谷吉継に、家康と戦わないことをすすめられていたのに、無理に戦って関ヶ原の戦いでぼろ負けした戦国最弱武将です。秀吉以外に信頼されていないし、武断派の武将に襲われたり、関ヶ原の戦いで裏切り者が出たことから、三成は統率力も武勇もないです。三成の長所なし!!!!
甲相駿三国同盟、三好、松永、織田を圧倒した最強戦国武将
上杉謙信は、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉のように高い軍事力で相手を圧倒するわけではありません。では、どこが強いのか。上杉謙信は、冷静で負けない方法を熟知している戦国武将だと思いました。謙信は、決して無理をしない戦国武将でした。川中島の戦いでも、武田軍を決して深追いしませんでした。これは、領地や家臣たちに利害がないかということを考えた結果だと、史料からのデータが残っているそうです。ちなみに、信玄でさえも、謙信とまともに戦うことを嫌ったそうです。また、第4次川中島合戦では、武田軍の多くの敵将を打ち破り、総大将である信玄をも負傷させたのだから、ほぼ謙信が勝ったと言っても過言ではありません。初陣も見事でした。少数の城兵を二手に分け、一方の隊が敵本隊の背後を奇襲し、城内から本隊を突撃させることで、見事に勝利を収めたのです(栃尾城の戦い)。兄、晴景との戦いでは、晴景軍が小荷駄を連れていないことに注目し、今後の晴景軍の動きを予測。そのまま夜襲で大勝利しました。また、手取川の戦いでは織田軍に夜襲を仕掛けてボコボコにしています。こんな事ができるのは、謙信の冷静さがあってこそだと思います。このことから、上杉謙信は最強だと思います。また、甲相駿三国同盟と戦いながら、やろうと思えば三好、松永を蚊を叩くほどの苦労もなく京から駆逐できるということです。現に、松永は、謙信のご機嫌伺いをしているほどです。さらにやばいのは、北条と戦った時、参戦した関東の武将が北条と戦い続けていれば、そのまま北条を滅ぼし、今川氏真を滅ぼし、挟み撃ちで信玄率いる甲州軍団を滅ぼし、その上で織田信長をも倒し、楽々と天下を取れていたということです。